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納蘭 明珠・康煕帝を支えた重臣は汚職で失脚

大清 1.5 清の重臣・役人・男達

納蘭 明珠(ナーラン・ミンジュ)は清朝の大臣。

満洲人の名門・葉赫那拉(イェヘナラ)氏の出身です。

4代皇帝・康煕帝に仕えて信頼されました。

明珠は大きな力を持ち派閥を作りました。

ところが康熙帝の信頼をよいことに役に立ちから賄賂をとり役職を与えていました。

ところがもうひとりの側近・索額圖(ソンゴトゥ)たちと激しく対立。

汚職を追求され大臣から外されました。

史実の 納蘭 明珠 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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納蘭 明珠 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1635年11月19日
没年月日:1708年6月3日
享年:73

姓:納蘭(ナーラン)/葉赫那拉(イェヘナラ)氏
名:明珠(ミンジュ)
旗籍:満洲正黄旗
父:尼雅哈(ニヤハ)
母:墨爾斉氏

妻:愛新覚羅氏(英親王アジゲの五女)

子供:
長男:性徳
長女:李天保の妻
次女:温郡王延綬の妻
次男:揆叙
三男:揆方
三女:早世

永珹が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

明珠(ミンジュ)は1635年11月19日。フルングルン(西海女直)のイェヘ部に生まれました。

祖父はイェヘベイレ(イェヘ部の族長)のギンタイシ(金台石)。

父・ニヤハ(尼雅哈)の時代にイェヘ部(叶赫部)を率いてマンジュグルン(建州女直)のヌルハチに降伏。佐領の役職を与えられました。

明珠(ミンジュ)は雲麾使、郎中、内務府総管などの役職を務めました。

愛新覚羅氏と結婚。

妻の愛新覚羅氏はヌルハチの十二男アジゲの娘です。清朝王家と親戚になりました。

康熙五年(1666年)。弘文院学士になり、政治を行う立場になりました。

康熙7年(1668年)、刑部尚書(司法大臣)に任命されました。工部尚書の馬爾賽と一緒に、淮揚の洪水を調査するよう指示されました。

康熙9年(1670年)。都監察院の左都御史に任命されました。

康熙10年2月(1671年)。経筵(儒教の学校)の講師に任命されました。

康熙11年(1672年)。兵部尚書(陸軍大臣)になりました。 三藩の排除を提案。大臣の索額圖(ソンゴトゥ)たちが三藩排除を主張した明珠(ミンジュ)の死を主張しましたが、康熙帝はソンゴトゥたちの意見を拒否しました。その後、康煕帝は三藩を廃止します。

康熙14年(1675年)。吏部尚書になりました。

康熙16年(1677年)。武英殿大学(内閣の大臣のひとつ)になり、太子太師(皇太子の教育係)を務めました。太子太師は位が高く皇帝の信頼が厚い大臣がなることが多いです。

台湾問題

康熙帝20年(1681年)。台湾に逃れていた明の残党のリーダー・鄭経が病死。鄭氏政権内では後継者争いが起こりました。

福建総督は台湾の鄭氏政権と戦うために軍の増員が必要と考え、軍の派遣を朝廷に進言してきました。

明珠(ミンジュ)は今が台湾にいる明の残党を叩くチャンスと考えていました。康煕帝は福建総督と巡撫が協力して台湾を攻略するように指示。明珠(ミンジュ)は総督と巡撫が牽制し合うのを心配。指揮系統を一人にするべきと提案。康煕帝は明珠の意見を採用しました。その後、清軍は台湾の鄭氏政権を降伏させました。

康煕帝は降伏した鄭氏政権の処遇についても明珠の意見を採用。その結果、有能な人材を採用することができました。

大臣の李光地たちは台湾に派兵した軍を駐留させると費用がかさむので撤退させ、台湾は放棄するべきと主張しました。施琅たちが反対。明珠も撤退には反対でした。康熙帝は明珠たちの意見を採用して台湾を福建省の管轄下のもと台湾府を設立、清の領土にしました。

 

明珠(ミンジュ)は13年間内閣に在籍し。三藩排除の議論や外敵からの防衛などで活躍しました。

ソンゴトゥとの対立

康熙帝の時代。明珠(ミンジュ)と索額圖(ソンゴトゥ)朝廷で大きな力を持っていました。

でも明珠(ミンジュ)と索額圖(ソンゴトゥ)は意見があいません。索額圖(ソンゴトゥ)は自分と意見の合わない大臣は排除していきました。明珠(ミンジュ)は表向きは謙虚で穏やかでした。自分の派閥に人を引き込むのが上手く、徐乾学たちと党派を作り仲間を増やしました。

大臣の地位に付いた明珠(ミンジュ)は表向きは康煕帝の信頼をよいことに。役人たちから賄賂を受け取りました。多くの贈り物をした者には役職を与えました。明珠の元に送られてくる財宝は山のようだったと言われます。

清朝だけの問題ではなく、賄賂とコネを使って出世するのは中国王朝に共通する問題でした。満洲人の大臣や皇子たちのもとには、利権を狙う漢人たちが群がり賄賂がやり取りされていました。康煕帝の時代は横領や賄賂の取締が緩かったのです。

索額圖(ソンゴトゥ)は皇太子を支持していました。

そこで明珠(ミンジュ)は朝廷内で皇太子を支持する人たちを排除していきました。

明珠の失脚

康熙26年(1687年)冬。地方総督の成龍から康熙帝に密かに報告がありました。「明珠と仲間の余国柱によって官職が売り飛ばされました」

報告を読んだ康熙帝は高士奇に「なぜ弾劾する者がいないのか?」と尋ねると、 高士奇は「死を恐れているからです」と答えました。

康熙27年(1688年)。命知らずな郭琇が「明珠と余国柱は私利私欲のために党員を集め、横領して、人々を混乱させた」とという理由で明珠と于国珠を弾劾しました。

康煕帝は明珠に対して「大臣の罪を許すわけには行かない。しかしこれまでの功績もある。明珠は武英殿大学士を解任、侍衛内大臣にする」と発表しました。

当時、明珠(ミンジュ)と索額圖(ソンゴトゥ)は大きな派閥をもっていました。明珠(ミンジュ)を一方的に排除してしまうと索額圖(ソンゴトゥ)の力が大きくなりすぎてしまいます。康煕帝としてはバランスを取りながらの政治をしていました。

その後20年近く侍衛内大臣として働き、闘病生活の末。

康熙47年(1708)4月15日、北京で死去。

康熙帝は第三皇子の胤祉を派遣して弔問しました。

明珠には3人の息子がいました。長男の 性徳は清朝時代の有名な詩人です。

TVドラマの納蘭明珠

皇帝の恋・寂寞の庭に春暮れて 2016年、中国 演:陳良平
花散る宮廷の女たち 2017年、中国 演:張新華
一代名相陳廷敬 2018年、中国 演:曹力

 

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