中国ドラマ「永楽帝・大明天下の輝き」の王月憫(おう げつひん)にはモデルがいます。
明朝秦王 朱樉(しゅ・そう)の正室 王妃です。名前は観音奴。
秦王 朱樉は明の初代皇帝 洪武帝 朱元璋(しゅ・げんしょう)の次男。
でも観音奴と朱樉の仲は良くなかったようです。
史実の 王妃はどんな人物だったのか紹介します。
王妃の史実
いつの時代の人?
生年:不明
没年:1395
姓:王(おう)
名:観音奴(かんのんど)
称号:愍烈王妃
国:元→明
父:サインチダク(賽因赤答忽)
養父:チャガンテムル(察罕帖木児)
母:フェオル・ナイマン氏 (佛児乃蠻氏)チャガンテムルの妹
兄:ココテムル(拡廓帖木児)、トインテムル(脱因帖木児)、ネイル(耐驢、金剛奴)
夫:秦王 朱樉
観音奴が行きたのは元朝末期、恵宗 トゴンテムルから明の初代 洪武帝 の時代。
日本では室町時代になります。
王観音奴の生涯
元朝の時代。
観音奴の生年は不明。
父はサインチダク(賽因赤答忽)
祖先は河南(河南省直管県)に入植したモンゴル人。サインチダクは元の役人で乗馬や弓矢の他、学問も好きでした。元朝末期、紅巾軍が暴れるとモンゴル人や漢人の地主が協力して義兵を組織。サインチダクも義兵に参加しました。後にチャガンテムルの軍に加わり将軍になりました。その後は宮廷に入り翰林学士承旨になりました。
母はフェオル・ナイマン氏 。
1365年。父サインチダクが死亡。母のフェオル・ナイマン氏はそれ以前に亡くなっています。
サインチダクには4人の子供がいました。
長男:ココテムル(擴廓帖木児、漢名:王保保)、
次男:トインテムル(脫因帖木児)、耐驢(金剛奴)そして末娘の観音奴です。
父が亡くなった時、観音奴はまだ幼かったと言います。
父の死後は祖父 梁王 アルウェン(阿魯温)に育てられました。
アルウェン(阿魯温)は元朝で陝西行省参知政事を務めました。1362年に汝陽王に任命され、後に梁王になりました。
明に囚われる
至正28年(1368年)。朱元璋が明を建国。明軍が華北を攻撃すると各地で元軍は敗北。ココテムルは大都を放棄して上都に避難しました。
このとき梁王 アルウェン(阿魯温)は明朝に降伏しました。観音奴もこのとき明に囚われました。
兄・ココテムル(拡廓帖木児)やトインテムル(脱因帖木児)はその後もモンゴル軍を率いて戦っていました。とくにココテムルは明軍に大きな被害を与えていたので明側でも手強い相手とみなされていました。
洪武帝の息子・秦王 朱樉と結婚
そこで洪武帝 朱元璋はココテムルの妹・観音奴を次男 秦王 朱樉(しゅ・そう)と結婚させました。
二人の結婚は政略結婚。洪武帝としては手強いココテムルを明に降伏させたいと思っていました。そこでココテムルの妹を自分の息子と結婚させたのですが。ココテムルは明には降伏しませんでした。
また洪武帝はモンゴル人を分断させるために、明の王族とモンゴル貴族との婚姻を進めようとしていました。
正式に結婚する前に祖父アルウェンが死亡しましたが洪武帝は喪に服する必要はないと考え、観音奴を「名家の賢い女性」と呼び秦王 朱樉の結婚を進めました。
秦王 朱樉との仲は悪かった
観音奴と秦王 朱樉の仲はよくありません。
二人の間に子は生まれませんでした。
秦王 朱樉は次妃の鄧氏(衛国公 鄧愈の娘)を寵愛。
鄧氏に言われて観音奴とは別居。観音奴を幽閉して毎日古い器で食事を与え囚人のような扱いをしました。
そのため鄧氏は洪武帝から叱りを受けて自害に追い込まれます。
しかし鄧氏の死後も秦王 朱樉は観音奴を屋敷内で軟禁。秦王府の家中をまとめる主がいなくなり屋敷内の秩序は乱れました。
明洪武28年(1395年)。秦王 朱樉が死亡。朱樉が使用人を虐待したため屋敷に仕える老女たちに毒殺されたともいわれます。
秦王 朱樉の死後。明の掟に従って観音奴は殉葬されました。
洪武帝は悲しみ、彼女に「愍烈」の諡を与え。朱樉とともに合葬しました。
テレビドラマ
永楽帝 2022年、中国 演:張墨錫 役名:王月憫
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