延礽君(ヨニングン)は21代国王・英祖の即位する前の呼び方です。
延礽君(ヨニングン)は19代国王粛宗と淑嬪崔氏の息子。
ドラマで人気のトンイの息子、イ・サンの祖父となります。
粛宗から正祖の間はドラマが多いです。
延礽君(ヨニングン)や英祖は何度もドラマ化されています。
朝廷内の派閥争いも激しく、王族同士の争いもありました。命の危険にもさらされたことがあります。
史実の延礽君(ヨニングン)はどんな人物だったのか紹介します。
延礽君(ヨニングン)の史実
プロフィール
称号:英祖(ヨンジョ、えいそ)、英宗、延礽君(ヨニングン)
清式諡号:荘順王
生年月日:1694年10月31日
没年月日:1776年4月22日
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の21代国王です。
日本では江戸時代。8代将軍・徳川吉宗~9代家重のころの人物です。
延礽君(ヨニングン)の家族
ヨニングンの父は肅宗
ヨニングンの母は淑嬪崔氏
ヨニングンの妻
王子時代の延礽君(ヨニングン)の妻は達城府夫人 徐氏。後の貞聖王后です。
ヨニングンの側室
ヨニングンの子供
- 和億翁主(1717-1718年)
- 孝章世子 李緈(1719-1728年)
- 和順翁主(1720-1758年)
延礽君(ヨニングン)の家系図
延礽君(ヨニングン)の家系図を紹介します。
人間関係、称号は肅宗・景宗時代のものに合わせています。
延礽君(ヨニングン)の生涯
おいたち
1694年(粛宗20年)。19代国王粛宗と淑媛崔氏(後の淑嬪崔氏)との間に産まれました。粛宗の子としては4男。母の暮らす寶慶堂(ホギョン堂)で産まれたといわれます。
淑嬪崔氏は針房の宮女でした。のちに仁顕王后に仕える宮女になったといいます。
延礽君(ヨニングン)は淑嬪崔氏にとっては次男です。長男の永壽(ヨンス)は生後2ヶ月で死亡したため事実上の一人息子として育てられました。
幼い頃、母が針房のお針子として働いていたことを聞かされて育ったといいます。
王宮の片隅でひっそりと暮らした王子時代
側室の子は重臣たちから軽く見られることがよくあります。しかも母の淑媛崔氏は生まれの身分が低いため、見下されていました。
そのため母子は王宮内の片隅でひっそりと暮らしていました。
1699年(粛宗25年)。5歳のとき、延礽君(ヨニングン)の称号が与えられました。
1701年(粛宗27年)。禧嬪張氏が死罪となります。母を失い、父・粛宗からも冷たくされた世子(景宗)はうつ気味になり病気がちになります。
王位後継者の候補になる
禧嬪張氏の死によって世子の立場が危うくなると重臣たちはだれを後継者にするかで争いはじめました。
少論派は世子を支持。老論派は延礽君を支持しました。
少論派はもともとは老論派と同じ西人派でしたが分裂。禧嬪張氏が王妃から降格するのに反対しました。その理由は世子の存在があったからです。
老論派は仁顕王后の復位を支持していた派閥。禧嬪張氏の息子にだけは王位についてほしくありません。そこで老論派に協力的だった淑嬪崔氏の子・延礽君を担ごうとしていたのです。
世子には子供がいません。粛宗は左議政の李頤命に世子の後継者に延礽君をするように伝えたといいます。少論派は激しく反対しました。
老論派と少論派の対立はますます激しくなりました。
1720年。粛宗が死亡。世子が即位して景宗になりました。
老論派は延礽君を世弟にするよう訴えます。少論派は反対しましたが、病気がちな景宗には子がありません。最も近い血縁者が延礽君なのは確かでした。
延礽君が世弟になる
1721年。老論派は仁元大妃(粛宗の継妃)を味方につけて延礽君を世弟にするよう景宗に要求しました。仁元大妃も望んでいるとあっては景宗は逆らうことはできず、延礽君を世弟にすると認めました。
仁元大妃は延礽君を世弟にする命令書を発行しました。
世弟になると聞いた延礽君は反対しました。世弟を撤回するように景宗に訴えたのです。
朝鮮王朝では形だけの反対はよくあります。でもこのときの延礽君は本気で反対していたのではないかといわれます。
このときは老論派の勢いが強かったのですが、もし少論派が力をもてば世弟の延礽君は邪魔な存在になります。命が危うくなる可能性があるからです。後に延礽君の心配は現実のものになりかけます。
しかし景宗も命令を取り下げません。延礽君は世弟になりました。
1722年。延礽君は清から正式に世弟と承認されました。
代理聴政をめぐる混乱
延礽君が世弟になって2ヶ月後。老論派の張聖復が延礽君に代理聴政をさせるように意見書を出しました。
景宗は病気がちでした。でも政務ができないほど重病ではありません。34歳とまだ若いです。
老論の不当な要求と思えました。ところが景宗は病気を理由にその日のうちにあっさりと認めてしまいます。
それに怒ったのが少論派でした。少論派は訴えを起こし代理聴政の撤回をもとめます。
少論派の訴えを聞いた景宗は代理聴政を撤回します。ところがその6日後にまた代理調整を命じました。
老論派にとっては希望どおりになったはずです。しかし老論派は景宗が何を考えてるのかわからなくなったのでしょう。こんどは老論派が代理聴政の撤回を求めました。
少論と老論がともに代理聴政の撤回をもとめる異常事態でした。
けっきょく景宗は代理聴政の撤回を決めました。
その後、少論派は老論派が朝廷に混乱をもたらしたと訴えます。老論派の重臣が流刑になり、金昌集(キム・チャンチプ)など主要な重臣が死刑になりました。
こうして少論派は朝廷を牛耳ることに成功しました。
となると危なくなるのは延礽君です。
謀反の疑いをかけられる
少論派は老論派を追放したものの、このまま景宗に子供が産まれなければ延礽君が次の王になってしまいます。
少論派は景宗の妃・宣懿王后とともに延礽君を排除しようとします。老論派が謀反を企んでいると訴えを起こしました。老論派の者たちが捕まります。
延礽君の名前も出てきました。普通は謀反に名前が出てくると王族でも処罰は免れません。
延礽君は仁元大妃(粛宗の継妃)のもとにかけつけ、涙ながらに訴えました。仁元大妃の助けもあり、景宗は延礽君が謀反に関わったことは認めませんでした。
延礽君は命が助かりました。
景宗の死
景宗は体は弱いながらも政務をこなしていました。
景宗の食欲がないというので延礽君は食欲を出してもらおうと蟹醤(わたり蟹を塩や醤油につけて熟成させたもの)と柿を届けました。蟹醤は美味なのだそうです。
ところが1724年8月21日。蟹醤と柿を食べた後に下痢をおこしてしまいます。なかなか下痢は止まりません。
景宗は安静にすれば良くなると考えたのか、延礽君と大臣を療養中の宮殿に呼んで政務を続けました。しかし仕事をしている最中にも景宗の声は弱くなっていきます。
医官が漢方薬を飲ませましたがよくなりません。悪くなる一方です。みかねた延礽君が朝鮮人参茶を飲むように勧めます。延礽君の口出しに医官は反対したようですが、延礽君は飲ませました。すると景宗の状態はいくらかよくなりました。
この時代、王族や役人はある程度は医薬の知識を勉強していたといいます。そうでないと自分の身を守れないからです。重臣が王の看病を担当することもありました。延礽君が医薬に無知だとはいえなのです。
しかし翌日、景宗は死亡しました。
もともと体が弱っていた景宗は食中毒に耐えられなかったのでしょう。
景宗の死によって延礽君は王になります。
1724年8月30日。延礽君は即位。21代国王・英祖の誕生です。
その後も流される景宗毒殺説
あまりにもあっけない死だったので老論や延礽君の暗殺が噂されます。現代でも景宗は毒殺されたとするドラマはよくあります。
蟹と柿は食べ合わせの悪い食べ物といわれますが、この食べ合わせで死に至ることはありません。体を冷やすというのも迷信です。しかし生蟹は痛みやすいので食中毒の可能性はあります。
迷信であっても当時の人が信じていたら批判の材料にはなります。結果論ですが「蟹醤を食べさせた延礽君が悪い」と言う人がいてもおかしくはありません。
衛生状態のよくない朝鮮王朝時代に醤油(塩の可能性もあり)漬けとはいえ夏場に生の蟹を食べるのはどうかとも思います。ただしそれは現代人の感覚。当時は食べていたのでしょう。
しかし延礽君は自分が送った蟹醤がもとで景宗が死んだと思ったようです。以後、蟹醤は食べませんでした。後悔する部分はあったようです。
「母がムスリ」は少論派が作ったフェイクニュース
英祖の時代に少論派の李麟佐(イ・インジャ)が反乱を起こした時、もっともらしく脚色して英祖が景宗を毒殺したと噂を流しました。
英祖の母がムスリ(水くみなど肉体労働をする奴婢)だという噂を流したのも少論派です。
ムスリは王のいる空間には入れません。だから王がムスリに手をだすことはありえません。それこそドラマの「トンイ」のように水くみが命がけで王のいる空間に忍び込むか、王がお忍びで出歩くかしない限りは王の視界に入ることもないでしょう。
英祖にまつわる噂話は少論派が意図的に流したものが多いです。
その噂は現代の韓国ドラマにも影響を与えています。時代考証にこだわらないのが韓国流のようです。
延礽君(ヨニングン)のドラマ
大王の道 MBC1998年 演:パク・クニョン
張禧嬪 チャン・ヒビン KBS 2002年 演:イ・ミンホ
トンイ
MBC 2010年 演:イ・ソノ、イ・ヒョンソク
トンイの息子・クムの名で登場。
テバク 運命の瞬間
SBS 2016年 演:ヨ・ジング
歴史上は幼くして死亡したヨニングンの兄・永壽が生きていた。というストーリー。
ヨニングンは主人公テギル(永壽)の兄として登場。
ヘチ 王座への道
SBS 2019年 演:チョン・イル
王子としてのヨニングンが主人公のドラマ。王位を狙う王族・ミルプングンとの対立が描かれます。
「トンイ」と同じ脚本家の作品。「トンイ」のクムが成長した姿と思って見ると楽しめるかもしれません。
テバクとヘチはほぼ同じ時代を描いた作品。両方を見比べてみるとのも面白いです。
コメント
金正運営(キム・ジョンウンエイ)だからね仕方ないね(‘・ω・`)
yumekajiyaさん、こんにちは。
怖い世界ですね。今も昔も。
ありがとうございました。
Zeroさん、こんにちは。
お役に立てれば嬉しいです。