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李芳雨(イバンウ)李成桂の長男は朝鮮建国に反対した?

朝鮮王族 3 高麗の重臣や人々

李芳雨(イ・バンウ)は李氏朝鮮を建国した太祖・李成桂の長男。

高麗への忠誠心が厚かった李芳雨は、父・李成桂が高麗王を排除し王の座につくと父親に反発しました。

都を離れ、田舎で隠居生活をおくったといわれます。

史実の李芳雨はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李芳雨(イバンウ)の史実

プロフィール

生没年

生年月日:1354年
没年月日:1394年 1月15日

名前

名前:李芳雨(イ・バンウ、り・ほうう)
称号:鎮安大君

家族

父:太祖・李成桂
母:神懿王后韓氏
妻:池淵の娘

子供
奉寧君
順寧君
敬惠翁主
翁主

彼が生きたのは高麗末期の時代です。

日本では室町時代になります。

李芳雨(イバンウ)の生涯

高麗で科挙に合格した役人だっった

1354年。高麗の武将だった李成桂の長男として桂咸鏡道で生まれました。

高麗末期に科挙(文科)に合格。禮儀判書、密直副使を勤めました。

幼い頃から親孝行な息子で、詩書を好み、倹約に勤めながら質素な生活をしていたといいます。

父が高麗に反乱を起こす

1388年 父・李成桂(イ・ソンゲ)が明の遼東軍を攻めよという高麗王の命令に反発。威化島回軍すると弟の李芳果たちとともに父に合流。

密直副使として明に使節として行きました。

1392年(太祖元年)8月。李成桂が王になりました。

10月。李家の祖先の宗廟が未完成であったため、穆王、翼王、度王、桓王の四代の祖先を祭り祭祀を行うように命じられました。

しかし世子に任命されたのは八男の李芳碩(イ・バンソク)でした。

 

李芳雨(イバンウ)の最期

1393年(朝鮮太祖2年)。失意の李芳雨はよく酒を飲んでいました。そのせいで病になり死亡しました。享年39歳。

1412年(朝鮮太宗2年)。王族の爵位の規則が新しく作られ、鎭安大君の称号が追封されました。

父親が朝鮮を建国してわずか2年での死亡でした。

同母弟の定宗が記した碑文によると富貴栄華に関心がなかったと書かれています。

 

高麗の忠臣だった?

李之蘭(イ・ジラン)の記録に登場する李芳雨

李之蘭(イ・ジラン)が書いた「清海百集」という記録には朝鮮実録とは違うことが書かれています。

李成桂が威化島回軍の後、高麗王を追放して政権をとると李芳雨は父親に反発。

高麗への忠誠心の厚かった李芳雨は父や兄弟とは意見が合わなくなり、ついに妻子をつれて江原道に向かい隠遁生活をはじめました。

朝鮮建国後も政治にかかわろうとしません。

李芳雨は王宮に戻ることなく黄海道に移動してひっそりと暮らしたといいます。

新たに領地を与えられましたが、故郷の咸鏡道咸興で暮らしました。

正史から抹殺された?

朝鮮実録には建国後も李芳雨が都にいたことが書かれていますが、清海百集には逆のことが書かれています。いったいどちらが本当なのでしょうか。

一般には清海百集の内容がよく知られています。

ドラマでも父の王位簒奪には否定的に描かれることが多いです。

他人が書いた野史なら信憑性は怪しいもしれませんが、李成桂の義兄弟の李之蘭(イ・ジラン)が書いたものですから信憑性は高そうです。

正史に「建国者の長男が前王朝に忠義を尽くした」とは書けませんから、朝鮮実録では李芳雨のことはほとんど書かれなかったのでしょう。

 

李芳雨の死で兄弟の対立が激化?

長男の李芳雨が朝鮮建国に反発し若くして亡くなったことから後継者争いが起こります。その後続く朝鮮の混乱のもとになったかもしれません。

李氏朝鮮は国王の長男が次の王になることは意外と少なく、不幸な目にあうことが多いです。その先駆けといえるかもしれません。

 

テレビドラマ

龍の涙 KBS 1996年 演:イム・ジョンハ
鄭道傳 KBS 2014年 演:カン・インギ
六龍が飛ぶ SBS 2015年 演:イ・スンヒョ
太宗イ・バンウォン KBS 2021 燕:オム・ヒョソプ

 

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