李 昞(り へい)は中国の南北朝時代。北周の重臣。
唐を建国した李淵(り ずい)の父親です。
妻の独孤氏は名前はわかっていません。彼女は随を建国した楊堅の妻・独孤伽羅の姉です。ドラマ「独孤伽羅」では李 昞の妻になった伽羅の姉は独孤曼陀(どっこ ばんた)となっていました。
でも家族や親類に歴史上の有名人が多いですが本人はほとんど知られていません。
史実の李昞はどんな人物だったのか紹介します。
李 昞(り へい)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:572年
名前:李 昞(り へい)
姓:大野(だいや)
廟号:世祖
本貫:隴西郡成紀県
父:李虎
母:
妻:独孤氏(独孤信の四女)
子供
梁王:李澄
蜀王:李湛
鄭王:李洪
高祖:李淵(唐の初代皇帝)
同安公主
李 昞は古代中国南北朝時代・北周の重臣です。
日本では飛鳥時代になります。
西魏の時代
父・李虎は西魏の八柱国のひとり。八柱国とは8人の大将軍。皇帝を補佐する臣下の中でも最も高い地位の将軍です。李家は西魏では皇后を出すことのできる名門の家柄でした。
李氏は隴西郡成紀県に本貫をもつ隴西李氏。漢民族とされますが、大野(だいや)という遊牧民系の胡姓も持ちます。
北周時代は大野姓を名乗っていたはずです
本籍地の隴西郡は現在の甘粛省。西に新疆ウイグル自治区、北に内モンゴルと接する地です。
このため李氏は鮮卑系の遊牧民の家系ではないかともいわれています。
西魏の八柱国には他にも筆頭の宇文泰、独孤信、趙貴などがいました。
李虎の地位は宇文泰や独孤信よりは下ですがほぼ同格といえる重臣でした。
551年か554年ごろ李虎が死亡。
554年。父の死によって隴西郡公の地位を引き継ぎました。
李 昞には兄が2人いたようですが早くに死亡しているようです。
北周が建国
556年。西魏が滅亡して北周が建国しました。
李 昞は北周に仕えました。
557年。独孤信が死亡。このころまでには独孤信の娘と結婚しているはずです。
564年。北周建国に協力した功労者として李虎に「唐国公」の称号が贈られ、
すぐに息子の李昞が唐国公を受け継ぎました。
566年。四男・李淵が生まれました。母は独孤信の娘。
長男・李澄から三男・李洪が産まれた時期はわかりません。
李淵のあと、娘の同安公主も産まれています。
李淵と同安公主の母は独孤氏です。
他に側室がいたのかはわかっていません。でも家柄も身分も高い人ですからいたと考えるのが普通でしょう。
時期は不明ですが安州総管にもなっています。
571年。柱国大将軍になりました。
572年。死亡。
当時7歳だった李淵が唐国公の地位を引き継ぎました。
李淵は四男ですが3人の兄はこの頃までには他界していたようです。
618年。李淵が唐を建国したとき、皇帝の地位が贈られました。
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