李瑋(り・い)は11世紀の宋の役人。
父の李用和は3代皇帝 真宗の側室・李宸妃
李宸妃は4代皇帝 仁宗の生母です。
李瑋は李宸妃の甥になります。
仁宗は愛娘の福康公主を李瑋と結婚させました。
福康公主は庶民出身の李瑋を見下していて嫌いでした。二人の結婚生活はうまくいきません。朝廷を巻き込んだ騒ぎになってしまいます。
史実の李瑋はどんな人物だったのか紹介します。
李瑋の史実
いつの時代の人?
生年月日:1035年
没年月日:1086年
姓 :李(り)氏
名称:瑋(い)
国:宋(北宋)
地位:駙馬都尉
称号:
父:李用和
母:楊氏
妻:福康公主
子供:
日本では平安時代になります。
おいたち
景祐2年(1035年)に誕生。
父は李用和。
仁宗の生母 李宸妃(真宗の側室)の弟です。
李用和は開封で暮らす庶民でした。しかし、姉が真宗の側室になったので官職を与えられ。
劉太后の死後は仁宗によって要職につけられていました。
母は李用和の妾・楊氏。
福康公主と結婚
仁宗の生母は李辰妃です。でもずっと劉太后(章献明粛皇后)ということにされていました。そのため仁宗は生母の生前に親孝行できなかったのを非常に悔んでいました。李辰妃の弟・李用和やその子らに役職を与えただけでは満足できません。
そこで1047年。仁宗は李用和の次男・李瑋(り い)に福康公主を嫁がせることにしました。
嘉祐2年(1057年)。仁宗は福康公主と李瑋を結婚させました。
李瑋は駙馬都尉(皇帝の娘婿)になりました。
うまくいかない結婚生活
駙馬(皇帝の娘婿)李瑋は美形ではありません。むしろ醜いと言われます。飾らない素直な性格でおしゃべりも得意ではなく、もともと庶民なので立ち振舞いに貴族らしさがありません。
福康公主はそんな李瑋が嫌いでした。
李瑋には水墨画の特技がありました。気分が乗ると絵を描きましたが、気に入らないと人に知られるのを嫌って処分しました。そのためあまり出回っておらず彼に絵の才能があるのを知る人はあまりいません。
でも公主は絵が得意というだけでは満足しません。容姿や立ちふるまいが重要なのです。
福康公主は李瑋を下僕のように扱いました。福康公主の乳母の韓氏や侍女たちも李瑋を見下していました。
李瑋は福康公主派の重臣からも虐待をうけ、その重臣が弾劾をうけたこともあります。
もともと李用和は科挙に合格していません。李辰妃の弟というだけで取り立てられ出世した人物です。李用和とその子らは重臣や科挙で受かった役人からは妬まれていました。
福康公主が美形の宦官・梁懐吉と仲良くなる
結局、福康公主は梁懐吉(りょう・かいきつ)を好きになり親密になります。梁懐吉は公主府を管理するために内侍省的から派遣されている宦官です。梁懐吉は美形で立ち振舞も気品のありました。
嘉祐5年(1060年)。ある月夜の晩。公主と梁懐吉はちょっとした宴会を開き、酒を飲んでいました。すると李瑋の母の楊氏が覗き見していたのをのぞき見しました。
すると激怒した公主は楊氏に暴行を加え怪我させました。怒りの収まらない公主は夜間に宮殿に向かい父の仁宗に不満をぶちまけます。
太祖以降。夜の宮殿は門を開けてはいけないのが決まりです。でも仁宗は公主が開門を要求すると門を開けさせました。
重臣たちは仁宗に対して、福康公主が夜間に宮殿におしかけた理由を説明するよう要求。非難も殺到。仁宗は梁懐吉や福康公主に仕える宦官・侍女9人を別の場所に異動させました。
一人になった福康公主は自殺未遂を繰り返す
嘉祐7年(1062年)。福康公主は宮殿に戻り。李瑋と別居しました。
李瑋は衛州に左遷されました。
母・楊氏の面倒は兄の李璋が見ることになりました。
身近な者がいなくなった福康公主は自殺未遂。仁宗は梁懐吉と張承照を戻しました。
そんな福康公主と仁宗に楊畋、司馬光、龔鼎たち臣下は不満でした。
「駙馬(公主の夫)を追放したのに公主の側近を呼び戻すのはおかしい。公主を教育すべき」と抗議しましたが仁宗は無視しました。
苗賢妃の婿抹殺計画
福康公主の生母・苗賢妃は娘を結婚を離婚させたいと思っていました。
そこで友人の兪充儀と相談。宦官の王務滋を李瑋の家に内官(家の管理をする人)として送り込み、李瑋を監視させました。
でも李瑋は慎重で用心深いので、王務滋は問題点を見つけることができませんでした。
その後、王務滋が李瑋を毒殺すべきと提案。苗賢妃と兪充儀は仁宗に李瑋を賜死させるようにお願いに行きました。
仁宗は何も言いませんでした。曹皇后と都知の任守忠が反対したので李瑋殺害計画は中止になりました。
離縁成立
その後。兄の李璋が「弟と公主を離縁させて欲しい」と皇帝に訴えでたので、仁宗は離縁を認めました。
司馬光はすでに処分を受けているので公主にも罰を与えるべきと訴え。仁宗は公主を叱り、李瑋に金200両を与えました。
李瑋は「駙馬都尉」の称号を失い、建州観察使に任命されました。
再婚して再び駙馬都尉になる
嘉祐7年(1062年12月29日)。仁宗が重病になりました。
仁宗は福康公主を「沂国公主」から「岐国公主」に格上げ。李瑋と再婚させました。
李瑋は再び駙馬都尉になり、安州観察使の役目を解かれて都に戻って役職に就きました。
福康公主の最期
嘉祐8年(1063年)。仁宗が死去。又従兄弟の英宗が即位しました。
英宗は仁宗の妻子には冷たく。自分の妻子に宮殿を明け渡すように命令しました。
福康公主は英宗からの援助がうけられなくなり李家で暮らすしかありません。わがまま放題できた仁宗時代とは待遇が全く変わってしまいました。
治平4年(1067年)。英宗が死去。神宗が即位しました。
熙寧元年(1068年)。李瑋は兄・李璋の十一男・李墦を養子に迎えました。神宗は李墦を 供備庫副使 に任命。名前を 李嗣徽 と変えさせました。
福康公主死後の李瑋
公主への待遇が悪いと処罰を受ける
その後。福康公主が病気になったので神宗は医師を派遣しました。
熙寧3年正月7日(1070年2月26日)。福康公主が病死。享年32。
神宗は公主の家に行って酒を飲み弔問しました。
戻ってきた神宗は李瑋が治療の妨害をしていたこと、公主の服や寝具にシラミが湧いていたこと。公主が自分で薪をくべようとして火傷したことを泣きながら大臣に報告。
神宗は全ては李瑋の責任であるとして李瑋を郴州團練使に降格、陳州に左遷しました。
ただし福康公主が生前出していた李瑋の息子・李嗣徽の昇格の願いについては認め。李嗣徽を供備庫使にしました。
恩赦で都に戻ってくる
その後。李瑋は恩赦で都に戻り、建武軍節度使、検校太師に昇進しました。
熙寧6(1073年12月23日)。李瑋の兄・李璋が死亡。李璋は読書が好きで収入は書物の購入に使われ、葬儀のための財産はありませんでした。李瑋は襄州、唐州、許州の役所から借金をして兄の葬儀を行い。その後に借金を返すつもりでした。神宗はこれを知ると「李璋は故章懿太后(李宸妃)の家族である。葬儀ができるように李瑋が借りた金銭を与えよ」と命令しました。
元豊3年(1080年6月20日)。李瑋の母が死亡。神宗は李瑋に皇族と同じ手当を支給しました。
李瑋の最期
元祐8年(1093年7月11日)。李瑋が死亡。享年 59歳
哲宗は李瑋の家を訪問、葬儀に出席して泣きました。
哲宗は李瑋に「太師」の称号と「中書令」の肩書を与えました。
テレビドラマ
孤城閉 2020年、中国 演:陸星
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