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上陽賦:王皇后は実在するの?モデルは?

上陽賦 2 ドラマ人物

王皇后は中国ドラマ「上陽賦」に登場する皇后。

大成国の皇帝・馬曜の正室。

ヒロイン 王儇(おう・けん)の叔母です。

王儇の父・王藺(おう・りん)の妹です。
皇太子 馬子隆の生母です。

名門貴族の琅邪 王氏の出身。ヒロインの王儇と馬子隆を結婚させ用としています。

上陽賦は架空の王朝を舞台にしたドラマですが、全てゼロから作っているのではありません。モデルになった国や人がいます。

皇帝 王皇后のモデルになった人物は実在するのでしょうか?いるとしたら史実ではそのような人物だったのでしょうか?

ドラマに登場する王皇后とそのモデルになった司馬曜を紹介します。

 

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ドラマ「上陽賦」の王皇后

演:史可(ジー・コー)
声:真壁かずみ

王儇の姑母。王藺の妹。
兄とともに実家の繁栄を望んでいます。

名門貴族の琅邪 王氏の出身。家柄に誇りをもっています。

劇中では大成国の皇后は代々琅邪 王氏から選ばれる事になっています。自分の次は兄の娘・王儇を次の皇后にしようとしています。

過去に温宗慎と付き合っていたことがあります。

兄・王藺と共に権力を得ようとするのですが失敗。

皇帝 馬曜の死後、息子の子隆が即位。皇帝になりました。
馬子隆の死後、病気が悪化。

馬子澹の即位後も宮殿にいますが、使用人が減らされ待遇は悪くなりました。王藺が生きていることを知ると、王藺と協力して反乱を起こそうとしますが。

 

王皇后のモデル1 王法慧(おう・ほうけい)

「上陽賦」の皇帝 馬曜(ば・よう)のモデルは普(東晋)の孝武帝 司馬曜(しば・よう)です。ということは王皇后のモデルは孝武帝 司馬曜の正室と考えるのが普通です。

孝武帝 司馬曜の正室は王法慧(おう・ほうけい)です。

ところが王法慧は琅邪 王氏の出身ではなく。太原王氏の出身。

伝承では琅邪王氏の祖先と太原王氏の祖先は兄弟だったと言われます。だからもとを辿れば同じかもしれません。琅邪 でも 太原 でも姓が「王」には違いないのですが。東普時代に力を持っていたのは琅邪王氏のほうです。

王法慧は普陵郡太守 王蘊之の娘。

孝武帝 司馬曜は12歳で皇帝に即位したので。結婚相手は最初から「皇后」になることが決まってます。そこで朝廷は美しいと評判の王法慧を皇后に選びました。

太原王氏は琅邪王氏ほどではありませんが、漢の時代には琅邪王氏以上に栄えた家系でしたから家柄も悪くありません。

酒癖の悪い皇后

王法慧は15歳のとき孝武帝 司馬曜と結婚。皇后になりました。

ところが王法慧は酒好きで嫉妬深く、司馬曜は困りました。孝武帝は父の王蘊之を呼び出して文句を良い、王蘊之は皇帝に謝罪しました。その後、王法慧も多少は行いを改めたようです。でも王法慧はわずか21歳で死亡しました。

孝武帝 司馬曜は次の皇帝を選ぼうとしませんでした。

王法慧は確かに酒好きで皇帝を困らせている皇后でしたが。悪事を働いたりしたわけではありません。

王皇后のモデル2 張貴妃

王皇后の死後。孝武帝 司馬曜の後宮で最高の地位にいたのが張貴妃です。

孝武帝 司馬曜が寵愛していたのは張貴妃でした。

張貴妃は14歳で入宮。司馬曜よりも5、6歳ほど年下でした。

張氏が入宮したころ。司馬曜の寵愛を集めていたのは 淑媛 陳歸女でした。

ところが張氏は司馬曜の寵愛を奪うことに成功。王皇后の死後は、後宮で最も権力をもつ妃嬪でした。張貴妃は後宮の人々からも恐れられたと言われます。

張貴妃も酒好きでした。同じ酒好きでも王皇后と違うのは、皇帝とは趣味が合って仲が良かったことです。野史(民間の噂話)では「張貴妃はいくら飲んでも酔わない」とも言われます。

王皇后は酒を飲んで愚痴を言うタイプだったのに対して。張貴妃は楽しく酒を飲めるタイプだったのかもしれません。

孝武帝 司馬曜は大の酒好きで、よく後宮の妃嬪を集めてよく宴会を開いていました。趣味の会う妃と仲が良くなるのは当然かも知れません。ところが孝武帝 司馬曜は酒の席で生涯最悪の大失敗をしてしまいます。

皇帝を暗殺

あるとき。いつものように孝武帝 司馬曜は張貴妃たちと酒を飲んでいました。

孝武帝は酒を飲んで気分が良くなったのか、張貴妃に対して

「お前もそろそろ歳だなあ。お払い箱にしようか。朕は若いほうがいいなあ」と言ってしまったのです。

孝武帝は冗談のつもりだったかもしれませんし。張貴妃はそれまで嫉妬深さを見せる人物ではなく楽しくお酒を飲んでいるタイプだったのでつい冗談を言ってみたのかもしれません。ところが張貴妃は孝武帝の言葉を真に受けました。

張貴妃は当時30歳前後。若い側室が入ってくる後宮では若いとはいえません。張貴妃に子供がいなかったのもよけいに危機感をもつ理由だったかもしれません。

自分は地位を奪われ若い側室を取り立てるに違いない。と思った張貴妃は宦官を買収。

孝武帝が酒に酔って寝室で寝ているところを襲撃させ。布団にくるんで殺害させました。

布団蒸しとは。布団は断熱性がよく、人を布団にくるんで巻きずしのようにしてしまうと。熱がこもって汗をかき、布団の中が蒸し風呂のようになって死んでしまうことがあります。また窒息したのかもしれません。

原題でも子供の虐待で布団蒸しで死なせる例があります。

いくら皇帝でも女性の歳をからかってはいけないという教訓でしょう。

孝武帝の死後。張貴妃は臣下を集め。「天子様はお休みのところを、にわかにうなされましてお亡くなりになりました」と発表しました。

皇帝を暗殺しても追求されない

当時、朝廷で力をもっていたのは孝武帝の弟・司馬道子です。司馬道子は張貴妃の発表を真に受けました。孝武帝は病死になって孝武帝の長男の司馬徳宗(安帝)が即位しました。張貴妃が責任を追求されたという記録はありません。

司馬道子は政治に関心を失い、息子の司馬元顯が朝廷を仕切っていました。司馬道子・元顯にとってみれば孝武帝は邪魔だったので、別に追求する気もなかったのでしょう。

張貴妃には子供がなく、次の皇帝 安帝 司馬徳宗は 淑媛 陳氏の息子です。安帝は精神障害だったとともいわれ。自分では政治ができないのでひきつづき司馬道子が政治を行いました。司馬道子・元顯にとっては操りやすい皇帝になってむしろ歓迎したいくらいだったでしょう。

もしかすると、宴会で腹を立てている張貴妃をそそのかしたのは司馬道子・元顯だったかもしれません。

その後。張貴妃がどうなったかは記録がありません。

でも記録が残っているということはどこかで張貴妃が皇帝を殺害したのがバレたはずです。そのころには張貴妃はいなかったのかもしれません。

張貴妃は自分が権力を持とうとか、実家を栄えさせようとしたのではなく。自分の保身のために皇帝を殺害しました。

皇帝に危害を加えた後宮の最高権力者。という点では「上陽賦」の王皇后に近いかもしれません。

 

 

 

 

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