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劉彊(劉強)落ち度はないのに皇太子を廃された光武帝の長男

漢 7 漢

劉彊(りゅう・きょう)は後漢の初代皇帝・光武帝の長男です。

「彊」は「強」と同じ意味。「劉強」とも書きます。

母は郭聖通。劉秀が河北を平定するために同盟した劉楊の姪です。

もともと劉秀には陰麗華という妻がいましたが。政略結婚のために母は劉秀と結婚しました。

でもそのことが劉彊の運命を変えてしまいます。

史実の劉彊はどんな人物だったのか紹介します。

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劉彊の史実

いつの時代の人?

生年月日:建武元年(25年)
没年月日:永平元年(58年)
享年:34

姓 :劉 (りゅう)
名称:彊(きょう)

国:漢(後漢)
地位:皇太子→東海王
称号:東海恭王

父:光武帝
母:郭聖通

子供: 劉政
沘陽長公主(竇皇后の母)

日本では弥生時代になります。

建武元年(25年)。誕生。
父は 光武帝・劉秀(りゅう・しゅう)

母は 郭聖通(かく・せいつう)

劉彊は劉秀の長男です。

劉秀は息子の誕生に喜びました。

この年には母の叔父・劉楊が謀反の疑いで殺害されました。それでも郭聖通と劉彊の地位は安泰でした。

建武2年(26年)。母の郭聖通が皇后になりました。
劉彊は皇太子になりました。

光武帝は劉彊には期待していたようです。劉彊は皇帝の後継者として育てられました。

父・光武帝と母・郭聖通は政略結婚でした。でも二人の間には5人の子供がいます。決して冷めた関係ではなかったようです。

でも光武帝の本命は陰麗華でした。この微妙な関係がのちのち影響します。

建武14年(38年)。このころになると郭聖通への光武帝の愛情は冷めていました。

寵愛が失われていく郭聖通は不満を口にするようになりました。

慎み深い陰麗華に対して、郭聖通は意見を言ったり不満を表現するタイプだったのでしょう。

建武17年(41年)4月。光武帝は南に行幸。皇太子の劉彊も一緒に行きました。

母・郭皇后が廃される

ところが10月。光武帝は郭聖通から皇后の位を取り上げて、陰麗華を皇后にしました。

郭聖通が寵愛を失って不満を言っていたのが原因といわれますが。もともと陰麗華を皇后にしたかった光武帝が些細な問題点をあげつらって廃位の口実にしたのです。

母は廃位になりました。でも劉彊の地位は変わりません。

それどころか郭聖通の次男で劉彊の弟・劉補を「中山王」に昇格させました。

光武帝は愛情の冷めた郭聖通を外して陰麗華を皇后にしたい。でも、郭一族を敵にしたくはない。というわけです。

でも子供の地位は親の影響を受けます。

臣下からは「あやふやな地位に長くいるのは孝に反するし、危険です」と言われます。

あやふやな地位になってしまったのは父・光武帝のせいです。それなのに「地位にしがみつくのは親不孝だ」と言われては劉彊の立場がありません。

半分脅迫です。

さらに臣下からは、皇太子・劉彊の母はすでに皇后ではない。皇后陰氏の子を皇太子にすべき。という内容の意見書が出されました。

劉彊はますます辛い立場に追い込まれました。

父・光武帝は何も言いませんが。臣下たちの圧力は強まるばかり。劉彊はいつか廃されるのではないか、危険な目にあうのではないかと不安になりました。

光武帝は「いい人」だと紹介される事が多いのですが。「天のお告げを信じるべきではありません(更始帝は予言好き)」と意見した臣下を死に追いやったりほど冷酷な一面もあります。

でも光武帝は臣下が皇太子・劉彊を侮辱するような発言をしても処罰しません。臣下たちは光武帝の考えを代弁していたのでしょう。

劉彊はまわりの者や諸王を通して皇太子の位を譲りたいと光武帝にお願いしました。

でも光武帝はすぐには認めませんでした。すぐに皇太子を廃したら格好悪いですし、郭一族が反発する可能性があります。しばらく皇太子の地位に置いて「太子が自ら何度もお願いするから廃したのだ」と言いたかったのでしょう。

逆に言えば劉彊はすぐに取り替えなければいけないほど無能で評判の悪い皇子ではない。皇太子の勤めは果たせる人物だったということです。

建武19年(43年)。光武帝から皇太子の位を譲る許可が出ました。

劉彊は「東海王」になりました。

陰麗華の息子・劉陽が新しい皇太子になりました。

東海王時代

建武28年(52年)。都を離れ領国に赴任しました。

劉彊には全く落ち度はありませんから。さすがに光武帝も劉彊を気の毒に思ったのでしょう。劉彊には魯郡を含む29県を与えました。皇子がもつにしては広大な領土を与えたのです。馬車や宮殿の調度も皇帝と同等のものとすることを許しました。

でもあまり優遇されると気味が悪くなります。

劉彊は東海郡を皇帝に返すと申請しました。光武帝は許可しませんでした。でも劉彊の行いに感心して、劉彊が書いた文章を臣下に見せました。

劉彊の領内にはかつて前漢の魯王・劉余が作った壮麗な霊光殿という宮殿がありました。そこで光武帝は劉彊に魯に都を置くよう命じました。

建武中元元年(56年)。光武帝が泰山で封禅を行いました。劉彊は儀式に同行しました。封禅とは天と地の神に世の中が平和なことを感謝する儀式です。

建武中元2年(57年)。光武帝が死去。冬に帰国しました。

永平元年(58年)。陰麗華の息子・劉陽が即位しました。明帝の誕生です。

この年、劉彊は病気になりました。明帝は劉彊のもとに医者を派遣しました。

兄弟や諸侯王たちには魯へ行くよう命じました。ところが劉彊はその年の間に死去してしまいます。享年34。

明帝は司空を派遣して葬儀を行わせました。

高齢でもないのに弟の明帝が即位したとたん死亡するのは不自然ですね。

明帝は殺すつもりはなかったかもしれませんが。周囲の者が殺害した可能性はあります。

領国は子の劉政(東海靖王)が継ぎました。

東海王の地位はその後も子孫が受け継ぎ、後漢が滅びるまで続きました。

 

テレビドラマ

 秀麗伝 2016年 演:邱爽 役名:劉強

劇中では名前は「劉強」
母は「過珊彤」になってます。
郭聖通と劉彊の親子がモデルです。

 

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