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孝文皇后・竇猗房|子供たちに大きな影響を与えた盲目の皇后

漢 4.2 漢

竇 猗房(とう いぼう)は前漢の皇后。孝文皇后ともいいます。

前漢の第5代皇帝・文帝の正室です。前半生は決して恵まれているとは言えませんが、息子や孫が皇帝になり大きな権力を持ちました。

中国ドラマ「美人心計」では宮中の争いに巻き込まれながらも力強く生きていく女性として描かれていますが。実際の竇 猗房の活躍は皇太后になってからの方がめだちます。

病気で失明しながらも皇帝達に大きな影響を与え続けた人物です。

史実の竇皇后はどんな人物だったのか紹介します。

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孝文皇后・竇猗房 の史実

生年:不明
没年:紀元前135年
皇后在位:紀元前179~157年
称号:孝文皇后

姓:竇(とう)
名:猗房(いぼう)または 猗(い)
称号:孝文竇皇后(こうぶんとうこうごう)
父: 安成侯(追遵)
母:安成侯夫人(追遵)
夫: 文帝

兄 竇長君
弟 竇広国

子供: 景帝、梁孝王、館陶公主

彼女は漢の第5代皇帝・文帝の正室。

おいたち

竇 猗房の両親は早くに亡くなりました。観津(現在の中国河北省)に葬られました。

竇 猗房には兄弟が2人いました。竇氏が4、5歳のとき2人の兄弟は誘拐されて奴隷として売られました。生き別れになった兄弟とは竇 猗房が皇太后になった後に再開し、重臣として採用します。

竇 猗房は皇太后・呂雉の侍女になりました。竇姫と呼ばれました。

呂雉は竇 猗房たち4人の女性を代王・劉恒に贈りました。

代国に行った竇 猗房は劉恒の寵愛をうけました。

紀元前188年。劉啓(後の景帝)を出産。

その後も一男一女を生みました。

文帝の時代。漢の皇后になる

紀元前180年。漢王室で権力を握っていた皇太后の呂雉が死亡。

劉恒が漢の皇帝(文帝)になりました。

劉恒(文帝)には4人の息子がいましたがいずれも若いうちに死亡していました。

179年。竇姫の生んだ劉啓(後の景帝)が皇太子になりました。

やがて竇姫は皇后になりました。

しかし竇皇后は病気で失明しました。文帝は慎夫人・尹姫を寵愛するようになります。しかし慎夫人には子供ができなかったので竇皇后の驚異にはなりませんでした。

景帝の時代。皇太后になる

紀元前157年。文帝が死去。

皇太子の劉啓(景帝)が即位しました。

竇氏は皇太后になりました。

末っ子の梁王・劉武を溺愛

ところが、竇太后は末っ子の梁王・劉武を溺愛していました。景帝も劉武とは親しかったので多くのものを与えていました。たくさんの援助を受けて劉武の領土・梁国は豊かな土地になりました。

紀元前154年。景帝には子供がいました。でもまだ皇太子を決めていませんでした。宴会のとき。景帝が酔った勢いで「余がこの世を去ったらお前が皇帝だ」と言いました。劉武は冗談だと思って本気にしませんでしたが。竇太后はそうすべきだと思いました。

その後、劉武は反乱の鎮圧で功績をあげます。竇太后はますます劉武を気に入りました。

紀元前150年。竇太后は劉武を皇太子にしようと景帝に相談します。重臣たちが景帝を説得したので実現しませんでした。

しかし劉武は配下に命じて自分の立太子に反対した重臣を殺害させました。実行犯や計画を練った者たちは処刑されましたが、劉武は竇太后に謝罪したので許されました。

しかし景帝は劉武を遠ざけるようになります。劉武が首都に滞在するのを許さず追い返しました。

自分の領土に戻った劉武はやがて熱病で死亡しました。

すると竇太后は「皇帝が我が子を殺したのだ」と泣き叫んで食事もとりませんでした。景帝は困り果てました。

長女の館陶長公主が慰めて竇太后はようやく落ち着き食事も取れるようになりました。

シンプルに生きる黄老思想を信じる

竇太皇太后は黄老思想を信じていました。道教の一派で老子の教えです。

この時代、仏教は伝わっていましたがまだ普及していません。儒教を信じる人もいましたが、漢の初期には黄老思想が人気がありました。

黄老思想を簡単にいうと「自然のまま、自然との調和が一番」という考えです。

そのため竇太后が生きている間は儒学者は採用されませんでした。

景帝は母の影響を強く受けていました。子供たちに黄老思想を教えました。

漢は匈奴と対立していましたが景帝はできるだけ戦争をしないように外交努力しました。国内では税や残酷な刑罰を減らし、国民の負担を減らしました。朝廷の支出を減らし倹約に務めました。

文帝と景帝の時代に漢は国力を溜め込み裕福な国になりました。景帝が父の政治を受け継いだのもありますが、母の黄老思想の影響もありました。

武帝の時代。太皇太后になる

紀元前141年。景帝が死去。

景帝には長男の劉栄がいました。ところが竇太后は次男の劉徹を次の皇帝にしました。

劉徹(武帝)が即位しました。竇氏は太皇太后になりました。

即位したばかりの武帝は16歳。武帝の即位に貢献した竇太皇太后は大きな権力を持ちました。

武帝が儒学者を採用しようとしても反対しました。

紀元前135年。死去。文帝と同じ陵墓に葬られました。

その後の漢

竇太皇太后の死後。武帝は独自の政治を始めます。儒教を採用し中央集権化を進め前漢の全盛期を造りました。

そのため。竇太皇太后の時代は武帝が本格的に政治を行う前の停滞した時代のような扱いをうけることもあります。

しかし武帝は黄老思想など様々な思想を禁止。匈奴との戦争を積極的に行い戦いには勝ちましたが国力を疲弊させました。

 儒教をないがしろにした竇 猗房は中国の歴史家の間では評判が悪いです。
 
竇 猗房は中国史上でもとくに早い時期に政治を行った女性です。竇 猗房も血縁者を中心にした政治を行いました。それでも呂太后ほどには評判は悪くありません。
 
竇 猗房の思想が夫や子供たちに影響を与え。その結果、漢が豊かになったからです。 

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