劉楊(りゅう・よう)は古代中国の漢から後漢時代の武将。
漢王室の末裔で、新朝時代には河北の豪族になっていました。
河北で10万の兵をもっていた劉楊は後に光武帝になる劉秀と同盟を結び、姪の郭聖通を劉秀と結婚させました。
ところが劉秀が皇帝に即位した後、劉楊も皇帝の地位を望んで殺害されます。
なお、名前の書き方は「劉楊」と「劉揚」があります。
「漢書」、「後漢書」光武帝紀では「劉楊」。
「後漢書」劉植伝・耿純伝では「劉揚」。
「劉楊」と書くのが一般的です。
史実の劉楊はどんな人物だったのか紹介します。
劉楊の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:26年
姓 :劉氏
名称:不明
国:前漢→新→後漢
地位:
称号:真定王→真定公→なし→真定王
父:真定共王 劉普
母:不明
妻:不明
子供:劉得
弟:臨邑侯 劉譲
従兄:劉紺
姪:郭聖通
甥:耿純
日本では弥生時代になります。
前漢の景帝から七代目の子孫。前漢王室の一族です。
父は 真定共王の劉普。
母は不明。
前漢時代の綏和2年(紀元前7年)。父・劉普の死後、劉楊は真定王になりました。
16年後の始建国元年(西暦9年)。王莽が新を建国。劉楊は真定公に降格になりました。
始建国2年(西暦10年)。公も外され称号をもたない地方の豪族扱いになってしまいました。爵位はなくなったものの、多くの領地を兵をもつ有力な一族にはかわりありません。
新朝時代
新朝末期。各地で反乱が起こりました。
更始元年(西暦23年)12月。河北で王郎が天子を名乗りました。王郎は以前から漢王室の末裔を自称していました。劉林たち河北の豪族たちが担ぎ上げたのでした。河北にも劉一族がいてそれぞれの勢力を持っていました。でもお互いに争ったら共倒れになります。かといってすでに即位している更始帝に従うつもりもない。そこで王郎という無難な人物を天子にたてました。
劉楊も王郎を支持しました。といっても積極的に王郎を支持していたわけではありません。劉楊は王郎の擁立には関わってないので、王郎政権では何の地位も持っていません。でも王郎には敵対しない。という消極的な支持です。
劉楊は十数万(一説には30万)の兵をもっていました。味方につくならできるだけ高く売り込みたい。と考えたでしょう。
更始2年(西暦24年)。劉秀の使者として劉植がやってきました。劉植も河北の劉一族でしたが、劉秀の配下についていました。
このときの劉秀は更始帝・劉玄の代理です。劉秀は王郎から賞金をかけられてお尋ね者になっていました。劉秀に味方すれば王郎を敵にまわし、劉玄を天子として認めることになります。
でもここで劉秀に味方すれば、王郎や劉林たちを倒して自分が河北の支配者になれるかもしれない。と思ったでしょう。
劉楊は劉秀と同盟することにしました。ピンチに陥っている劉秀にここで恩をうっておけば更始帝政権で高い地位につけるかもしれない。と思ったのかもしれません。そのためにも劉秀とは親しい関係にしておかないといけません。
そこで劉秀が真定にやってくると、劉楊の姪・郭聖通(かく・せいつう)を劉秀と結婚させました。
劉秀もどうしても劉楊の力が欲しかったので結婚を認めました。
劉楊は郭氏が暮らす漆里の邸宅で劉秀配下の武将たちと宴会をひらいて交流を深めました。
劉楊は劉秀のために兵を出し食料も提供しました。そして王郎討伐のための軍に加わり邯鄲へ進軍しました。
更始2年(西暦24年)夏。王郎は劉秀と劉楊たちによって滅亡します。
劉秀が皇帝に即位
その後、劉秀の力を恐れた更始帝は劉秀を呼び戻して軍を動かす権限を奪おうとしました。ここで劉秀は拒否。劉秀は劉玄と決別しました。
建武元年(西暦25年)。劉秀が天子(光武帝)を名乗ります。
このころ劉楊は「真定王」に復帰したと思われます。
姪の郭聖通は貴人になりました。
この年、郭聖通に男子が誕生しました。
劉楊を困惑させたのは、劉秀が郭聖通を皇后にしないことです。劉秀は陰麗華を皇后にさせたがっているようでした。
劉秀が王郎を倒し皇帝になれたのは劉楊のおかげです(少なくとも劉楊はそう思っていたでしょう)。劉楊の姪の郭聖通は男子を出産しています。当然、郭聖通が皇后になるべき。と劉楊や河北の武将たちは思いました。
皇后の座は郭聖通と陰麗華の争い。というだけでなく。
最初から劉秀に従っていた南陽の勢力と。
劉楊とその仲間たち河北の勢力。
光武帝政権の中でどちらが主導権を握るかの争いでした。
最終的に陰麗華が皇后を辞退。郭聖通が皇后になります。
そういったこともあり劉楊は劉秀が信用できなくなったようです。そして真定王の地位だけでは満足できなくなりました。
皇帝の地位を望んで殺害される
予言を捏造
劉楊は自分が皇帝になろうと考え「赤九之後、癭楊為主」(火徳の九代目の後に、瘤のある楊が主になる)という予言を捏造して広め。さらに領地の綿曼(真定)の者達と連絡をとりました。
漢王朝は五行説(木火土金水)で「火」の王朝でした。
漢の創始者から数えて9代目が劉秀。その後、天下の主になるのが瘤(コブ)のある「楊」という人物だ。
という内容です。
劉楊の首にはコブがありました。
「劉楊が皇帝になる」という予言です。
新朝を建国した王莽も予言を使って即位しました。もちろん予言だけでは即位できません。人々の支持を集めるための手段として「予言」は使われました。宣伝工作のひとつです。
中国時代劇や韓国時代劇でよく「○○が王になるという予言」が登場します。日本人からみると馬鹿馬鹿しいですが、2000年前の中国で王になりたい人たちが行っていた「宣伝」が始まり。民衆にはそれなりに効果があったようです。
光武帝の命令で殺害される
でも光武帝 劉秀はそんなことされたら困ります。
例え劉楊がすぐに挙兵するつもりはなかったとしても。劉楊を支持する声が大きくなれば、劉秀の地位は安泰ではなくなります。
劉秀はすぐに劉楊を始末しようと考えました。
建武2年(26年)春、光武帝は騎都尉陳副・游撃将軍鄧隆を劉楊のもとに派遣してきました。
でも劉楊は城門を閉じて、陳副たちを場内に入れませんでした。
すると光武帝は劉楊の外甥・前将軍耿純を派遣してきました。幽州・冀州に恩赦をだして王侯たちのご機嫌をとって味方にしました。
「劉楊と会うことがあれば生け捕れ」と密かに命令を出しました。
耿純は陳副・鄧隆とともに、劉楊のいる真定に来ました。
劉楊はそれでも病気と偽って会おうとはしませんでした。でも甥の耿純にだけは会うことにしました。
劉楊は弟の臨邑侯 劉譲、従兄の劉紺とともにそれぞれ1万人余りの軍をひきつれて耿純のいる伝舎(役所)に行きました。
まず劉楊が僅かな伴をつれて耿純に面会しました。すると耿純はていねいな対応をしました。安心した劉楊は、劉譲・劉紺もよびました。
すると耿純は伝舎の門を閉じて劉楊たちに襲いかかりました。劉楊と劉譲・劉紺が殺害されました。
劉楊の親族は罰せられない
光武帝は「噂は流したけれども実際には劉楊は挙兵はしなかった」というわけで劉楊の子の劉得を真定王にしました。
また劉楊の死後も。姪の郭聖通は皇后のままでした。
劉楊が死んでもまだ河北の勢力は残っていました。光武帝は河北の武将たちの支持を失うわけには行かないのです。
でも劉秀が中華を統一後。もう武力は必要ありません。官僚が優遇される時代になります。
郭聖通は廃され陰麗華が皇后になりました。
テレビドラマ
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:劉城銘 役名:劉揚
コメント