孝荘銭(こうそうせん)皇后は明王朝の皇后。第6・8代皇帝・英宗(正統帝・天順帝ともいいます)の正室です。
ドラマ「女医明妃伝」では銭皇后として登場します。
夫・英宗(正統帝)はオイラトとの戦争で捕虜になりました。悲しみのあまり銭皇后は足や目が不自由になってしまいます。
後に英宗は釈放されましたが幽閉されてしまいます。銭皇后はそんな英宗を支え続けました。
史実の孝荘銭(こうそうせん)皇后はどんな人物だったのか紹介します。
孝荘銭(こうそうせん)皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:1426年8月2日
没年月日:1468年7月15日
姓:銭
名称:不明
地位:明朝皇后
称号:孝荘銭(こうそうせん)皇后
父:銭貴
母:陳氏
夫:英宗(6・8代皇帝)
兄弟:銭欽・銭鐘
子供:なし
彼女は明朝の第6・8代皇帝・英宗の正室です。
日本では室町時代になります。
おいたち
淮安府海州(江蘇省)出身。
1426年。正二品都督同知の銭貴の娘として生まれました。
母は陳氏。陳氏は銭貴の正妻ではなかったようです。銭氏が英宗に嫁いだときも正妻の包氏が実母のふりをしました。
二人の兄弟(銭欽と銭鐘)は軍人でした。
1442年。18歳のとき太皇太后張氏に選ばれて、正統帝(英宗)の皇后になりました。銭皇后は美人だったと言います。
銭皇后は穏やかな性格で正統帝を愛しましたが、子宝には恵まれませんでした。
土木の変で正統帝が捕虜に
1449年。明とオイラトの戦争が始まりました。
正統帝は自ら明の軍団を率いて出陣しました。
ところが明軍はエセン率いるオイラト軍に敗北。英宗は捕虜になってしまいます。さらに2人の兄弟(銭欽と銭鐘)は戦死しました。
エセンは正統帝を釈放する代わりに多額の身代金を要求しました。
銭皇后は宮中の金を持ち出して釈放させようとしました。しかし臣下たちに止められます。
明朝廷は正統帝のかわりに弟の朱祁鈺(しゅ・きぎょく)が即位。景泰帝になりました。
銭皇后は仁寿宮に移されました。前の皇帝の妃嬪たちが暮らす場所です。
銭皇后は床に膝混付いて泣き崩れることが多かったようです。そのため片足が不自由になり、片目も失明してしまいました。
幽閉生活
やがて正統帝は釈放されて帰ってきました。ところが正統帝は景泰帝によって南宮に幽閉されてしまいます。銭皇后も一緒に幽閉され、厳重な警備の中で暮らさなくてはいけませんでした。
銭皇后は夫をよく慰め、側室たちをまとめて布を折っていました。その布を売ってお金にしていました。正統帝は銭皇后に感謝して徳を讃えました。
再び皇后になる
1457年。臣下達が反乱を起こして景泰帝が廃され、天順帝は救出されました。天順帝は再び皇帝になりました(2回めの即位では天順帝とよばれます)。
皇后を誰にするかで問題になります。
障害をもち子供のいない銭皇后に対して、男子がいる周貴妃を皇后にという声が臣下の間からも出ました。
周貴妃の息子・朱見深が皇太子になりました。
でも天順帝は周貴妃を皇后にはしませんでした。再び、銭皇后を皇后にしたのです。皇太子の生母でない女性が皇后になるのは明史上始めてでした。
しかし天順帝は皇后を変えませんでした。
1464年。天順帝が死去。「銭皇后を廃さないように、銭皇后を合葬するように」と遺言を残しました。
1468年。銭皇后が死去。
周貴妃の息子・朱見深が即位しました(成化帝)。
天順帝との合葬にする予定でしたが、皇太后になった周氏の反対で実現しませんでした。天順帝の遺言は守られませんでした。
ドラマの銭皇后
王の後宮 2010年、中国 演:陳莎莉
女医明妃伝 2016年、中国 演:李呈媛
忠孝節義 2019 年、台湾 演:葉麗娜
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