秦瓊(しんけい)は唐の武将。
姓は秦(しん)、名は瓊(けい)、字(あざな:通称)は叔宝(しゅくほう)。
秦 叔宝と呼ばれることもあります。
中国では門神としても有名。尉遅恭(うっち きょう)と一緒に寺院や道教施設の入口を守る神として信仰の対象になっています。日本の仁王みたいな感じです。
李世民に仕え数々の戦場で手柄をたてた名将軍でした。
史実の秦瓊はどんな人物だったのか紹介します。
秦瓊の史実
いつの時代の人?
姓:秦(しん)
名:瓊(けい)
字:叔宝(しゅくほう)
生年月日:不明
没年月日:638年
父:秦愛
母:不明
妻:不明
子供:秦懷道、秦善道 他
隋の時代
2代皇帝・楊広(ようこう)の治世。
はじめは将軍・来護児(らい ごじ)の部下でした。
あるとき。秦瓊の母が亡くなりました。来護児は部下を弔問に行かせました。すると部下は不思議がって「将軍は士卒が死んでも弔問することはありませんでした。秦瓊を弔問するのはなぜですか?」と聞きました。来護児は「あいつは勇猛で頭がよく、志と誠実さをもっている。いずれ冨を得て立派になるだろう。卑しい者としてあつかうことはできない」と答えました。
楊広(ようこう)の治世の後半。秦瓊は将軍の張須陀に仕えていました。
614年。盧明月が十万以上の民衆を率いて反乱を起こしました。張須陀の軍は2万以下の兵しかありません。そこで本体が撤退するふりをして盧明月の軍をおびきよせ、そのすきに奇襲部隊で本陣を叩くことにしました。奇襲部隊は危険な任務でしたが、秦瓊と羅士信が名乗りをあげました。
秦瓊と羅士信は1000人ずつの兵を従えて奇襲攻撃を成功させました。盧明月の軍はパニックになり、反乱軍は壊滅。多くの反乱軍が投降しました。さらにもうひとりの将軍・孫宣雅を討ち死にさせました。
616年。李密(り みつ)率いる反乱軍が洛陽を脅かしていたため、楊広は張須陀の軍を派遣しました。このときも秦瓊は張須陀に従っていました。
ところが張須陀が李密に敗れて戦死すると、裴仁基(はい じんき)が討伐軍の大将になります。秦瓊は残兵をまとめて裴仁基(はい じんき)の指揮下に入りました。
617年。ところが裴仁基は隋の上層部に不満をもっていたので部隊ごと李密に寝返ってしまいます。李密は勇猛な兵たちが配下になったので喜びました。秦瓊は李密に気に入られて帳内驃騎になりました。
618年。楊広が配下の宇文化及(うぶん かきゅう)に殺害されます。すると王世充(おう せいじゅう)は楊浩(よう こう)を皇帝に担ぎます。李密は王世充との争いに破れ逃亡。秦瓊は王世充に降伏しました。
唐の時代
619年。王世充は楊浩を廃して自ら皇帝を名乗り国号を 鄭 にしました。
しかし王世充は暴君だったので民衆たちが逃亡。秦瓊は李淵の建国した唐に亡命しました。
李淵は秦瓊を李世民の配下につけました。
劉武周との戦い
619年。劉武周は2万の兵を率いて唐の北部を襲撃したので、高祖・李淵は軍を派遣しました。唐軍は李孝基ら武将が捕虜になるなど苦しい戦いでした。
美良川での戦いで李世民の部隊が劉武周側の尉遅恭(うっち きょう)の部隊を食い止めて徹底せました。このとき秦瓊と殷開山は尉遅恭相手に目覚ましい働きをしました。
秦瓊は柱國 の地位を与えられました。
620年にも、劉武周と李世民の部隊が戦いました。秦瓊は李世民の勝利に貢献しました。敗北した劉武周は逃亡。尉遅恭は唐に降伏しました。
620年の後半から621年にかけて。李世民は軍を率いて鄭の本拠地洛陽を攻めました。鄭の王世充は夏に救援を求めました。
夏の竇建徳(とう けんとく)は救援に来ましたが、秦瓊たちが戦ってこれを撃退。
その後、鄭の王世充は唐に降伏しました。
秦瓊は夏や鄭との戦いでは先頭にたって戦い手柄をたて 翼国公 になりました。
622年には李世民とともに劉黒闥と戦い勝利ました。
626年。玄武門の変の後。左武衛大将軍になりました。
638年。死去。
太宗(李世民)は秦瓊(しんけい)の石像を造らせ墓にたてました。
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