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信城君(シンソングン) の死因は病死。宣祖が寵愛した悲運の王子の生涯とは?

信城君(シンソングン)は李氏朝鮮王朝の王子。14代国王 宣祖の息子ですが、文禄の役による避難生活中に病死しました。わずか13歳の若さでした。この記事では信城君の死因や彼がどのような人物だったのかを史実に基づいて詳しく解説します。

父の宣祖には嫡男がなく。息子は側室の生んだ子供ばかりでした。信城君の母も側室の仁嬪金氏です。

当時の重臣たちは光海君を有力候補と考えていましたが、仁嬪金氏は自分の息子を王にしようとします。でも日本との戦争がおきて世子の話はなくなり。信城君も避難中に病死していしまいます。

史実の信城君どんな人物だったのか紹介します。

 

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信城君(シンソングン)の史実

いつの時代の人?

  • 名前:李珝(イ・フ)
  • 称号:信城君(シンソングン)
  • 生年月日:1578年12月10日
  • 没年月日:1592年11月5日

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の時代に生きました。

日本では戦国時代の人になります。

家族

 

信城君の家系図

 

信城君(しんそんぐん)の家系図

仁嬪金氏の家系図

 

おいたち

信城君 李珝(イ・フ)は1578年に生まれました。

父は宣祖

父の宣祖は李氏朝鮮の14代国王です。

朝鮮 14代国王 宣祖

朝鮮 14代国王 宣祖

 

母は仁嬪 金氏

母の仁嬪 金氏は宣祖が最も寵愛する側室。

信城君を出産した当時は昭容でした。信城君は宣祖にとっては4番めに生まれた庶子。昭容 金氏にとっては2番めに生まれた子供になります。(最初の息子・李珹は幼くして死亡しています)。

 

宣祖が信城君を寵愛した理由

かつて宣祖は恭嬪金氏(コンビンキムシ)を寵愛していました。1577年に恭嬪金氏が病で亡くなると宣祖は深い悲しみに暮れます。このとき宣祖を慰め、心を癒やしたのが後に仁嬪となる昭容金氏でした。彼女は宣祖の心を捉えて恭嬪金氏以上の寵愛を受けるようになります。

そうして宣祖の寵愛を集めている時期に生まれたのが信城君でした。

その後、母の金氏は貴人(従一品)に昇格します。

宣祖から可愛がられた信城君

信城君は幼いころから宣祖の愛を一身に受け、一時は光海君に代わる世子(次期国王)候補と考えていたほどです。

 

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信城君(シンソングン)が世子候補になった理由

宣祖の時代、朝鮮の朝廷では世子を誰にするかが大きな問題でした。宣祖と王妃との間には息子がいません。宣祖の息子はすべて側室が産んだ子供たちでした。そのため誰にでも王位継承の可能性があると考えられたのです。

世子問題で東人派と西人派が対立

そのころ。朝鮮の朝廷では東人派(トンインパ)西人派(ソインパ)という二大派閥に分かれて激しく対立していました。

政争の道具になった世子争い

1591年(宣祖24)。派閥争いの真っ只中に世子を決める話が持ち上がります。

東人派の領議政・李山海(イ·サンヘ)と右議政・柳成龍(ユ·ソンリョン)は西人派の筆頭・鄭澈(チョン・チョル)を追い落とそうと考えます。

あるとき、李山海・鄭澈・柳成龍はそろって光海君を世子にすることで意見がまとまり。一度は宣祖に提案しようと約束します。

でも西人派に恨みを持っていた李山海は仮病を使って欠席。鄭澈たち西人派だけが出席して宣祖に「光海君を世子にしましょう」と提案しました。

東人派が信城君を世子に推す

李山海は仁嬪金氏の弟・金公諒(キム・ゴンニャン)を通して仁嬪金氏に「西人の左議政・鄭澈が光海君を世子に決め、信城君を陥れようとしている」と告げさせ。李山海たち東人派は「西人派が独断で世子を決めようとしている」と訴えました。

貴人·金氏も「西人派の左議政・鄭澈が光海君を世子に決めて信城君を排除しようとしている」と訴えました。

これによって建儲議事件と呼ばれる政争が起こり、鄭澈が左遷、他の西人派の重臣たちも排除され、東人派の柳成龍が左議政になりました。

信城君は東人派と西人派の政争に利用された形です。

もちろん貴人·金氏は信城君を世子にしようと考えていました。宣祖も信城君を世子にしようと思い始めていました。

 

信城君の死因とは?なぜ13歳で亡くなったのか

世子問題は棚上げ

その後。日本の豊臣秀吉は明への出兵を決定。朝鮮に先導役を命じてきました。その対応を巡って東人派と西人派が対立。さらに東人派内部でも李山海と柳成龍が鄭澈の処分方法を巡って対立。李山海の南人派と柳成龍の北人派に分裂して争いました。

その間。世子の問題や朝鮮の防衛の問題は棚上げになりました。

重臣たちは政敵を追い落とす材料に使っただけで本気で信城君を世子にする気はなかったのです。
 

戦争が始まり世子は光海君に決定

1592年4月14日。豊臣秀吉は日本軍に明への出兵を命令。文禄の役(壬辰戦争)が始まりました。4月15日。日本軍が釜山に上陸。日本軍は猛烈な早さで進撃しました。

4月28日。朝鮮の防衛部隊が壊滅したという報告を聞いた宣祖と朝廷の重臣は避難を決定。

王に万が一のことがあったときのため、世子を決めることになりました。

戦時なので後継者にはリーダーとしての能力が求められます。まだ14歳の信城君では国をまとめられません。宣祖は重臣たちにしつこく言われて仕方なく光海君を世子に決めました。

李山海や柳成龍は光海君の世子に反対して信城君を世子にしようとしていたのでは?と宣祖も思ったかもしれませんが。李山海や柳成龍は西人派を排除する口実に使っただけだったのです。

 

日本軍襲来で信城君も避難

4月29日。宣祖は世子を発表するとその日の夜。雨の降るなかを都の漢城を脱出しました。

宣祖・王妃・貴人金氏信城君や弟の定遠君籠に乗り。世子の光海君に乗り、李山海や柳成龍たち臣下は徒歩で漢城を脱出しました。

過酷な避難生活が原因?

4月30日の夕方。宣祖と信城君たちは開城に到着。漢城が日本軍に占領されたと報告があり5月4日には宣祖は開城を出ました。信城君も宣祖といっしょに移動。5月8日。宣祖たちは平壌に到着しました。

信城君が避難した経路の地図

文禄の役 宣祖 避難経路

 

5月29日。「日本軍が臨津江を渡った」という報告を受けて、宣祖は信城君と定遠君を先に平安道寧辺に避難させました。

寧辺は朝鮮の北西部の守りの重要拠点。寧辺ではかつて高麗の姜邯賛(カン・ガムチャン)が契丹と戦って退けています。

 

ところが寧辺にも日本軍が迫り信城君の身が危なくなってきました。過酷な避難生活は幼い信城君の体を蝕んでいきます。彼は他の王子たちほど体が丈夫ではなかったと言われています。

12月8日(旧暦11月5日)。信城君は義州(ウィジュ)へ避難する途中で病気になり、そのまま死亡しました。わずか13歳でした。

死没地は平安道義州と記録されています。彼の遺骸は一時的に義州に安置されました。

もともと体が弱かった?

こうして信城君は避難中に亡くなったのですが、避難していたのは信城君だけではありません。弟の定遠君も時一緒に避難していました。でも彼は無事でした。

信城君の死因は過酷な避難生活もあったかも知れませんが、ともと体は丈夫ではなかったためだと考えられます。当時の医療では、疲労や感染症から丈夫とはいえない王子を守ることは難しかったのでしょう。

 

信城君の死後、仁嬪金氏の野望は実現した?

同母弟の定遠君は生き延びました。ところが定遠君は臨海君と同じくらい評判の悪い人物だったので仁嬪金氏は自分の息子を世子にするのを諦め。光海君の支持にまわりました。

信城君の死とともに仁嬪金氏の夢も消えてしまったのです。

ところがその後、定遠君の息子の綾陽君(仁祖)が反乱をおこして光海君から王位を奪いました。仁祖の誕生です。

仁嬪金氏が信城君に託した夢は孫の仁祖が叶えました。

テレビドラマ

ホジュン・伝説の心医 2013年、MBC 演:キム・ジンソン
火の女神ジョンイ 2013年、MBC 演 パク・ジュンモク
王の顔  2014年、KBS 演:ウォン・デクヒョン
懲毖録 2016年、KBS 演:ユ・スンヨン

 

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王子
この記事を書いた人

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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