信城君(シンソングン)は李氏朝鮮王朝の王子。
宣祖の4男です。
母は仁嬪金氏(貴人金氏ともいいます)。
宣祖には嫡男がなく。息子は側室の生んだ子供ばかりでした。
その中でも光海君の評判がよく重臣たちは光海君を有力候補と考えていました。
でも信城君の母・仁嬪金氏は自分の息子を王にしようとします。重臣たちとも手を組み有力候補にしようとしましたが。うまくいきませんでした。
日本との戦争がおきて世子の話はなくなり。信城君も避難中に病死していしまいます。
史実の信城君どんな人物だったのか紹介します。
信城君(シンソングン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1578年12月10日
没年月日:1592年11月5日
名前:李珝(イ・フ)
称号:信城君(シンソングン)
父:宣祖
母:仁嬪金氏
妻:平山 申氏
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の時代に生きました。
日本では戦国時代の人になります。
おいたち
信城君 李珝(イ・フ)は1578年に生まれました。
父は宣祖。
母は昭容 金氏(後の仁嬪)。
金氏は「仁嬪」の称号が有名です。仁嬪は1604年に仁穆王后が王妃になったときに貴人金氏が昇格して与えられた称号。それまでは昭容や貴人でした。
信城君は宣祖にとっては4番めに生まれた庶子。
昭容 金氏にとっては2番めに生まれた子供でした。(長男・李珹は幼くして死亡しています)。
かつて宣祖は光海君の母・恭嬪 金氏を寵愛していました。1577年に恭嬪 金氏が病死。そのとき宣祖を慰めたのが昭容 金氏でした。それ以来、金氏は宣祖のお気に入りにになりました。その寵愛ぶりはかつての恭嬪以上でした。
そうして宣祖の寵愛を集めている時期に生まれたのが信城君でした。
その後、母の金氏は貴人(従一品)に昇格。貴人金氏は宣祖から非常に寵愛されていました。
そこで貴人金氏は信城君を光海君のかわりに世子にしようと考えました。宣祖も一時は信城君を世子にしようと考えたといいます。
世子問題で東人派と西人派が対立
そのころ。朝鮮の朝廷では重臣たちが東人派と西人派に分かれて対立していました。
1591年(宣祖24)。東人派の領議政・李山海(イ·サンヘ)と右議政・柳成龍(ユ·ソンリョン)は西人派の鄭澈(チョン・チョル)を追い落とそうと考えました。
あるとき。世子を決めることになり、李山海・鄭澈・柳成龍はそろって光海君を世子にすることで意見が一致。宣祖に提案しようと約束しました。
提案する日になりました。李山海たちは仮病を使って欠席します。
鄭澈たち西人派だけが出席して宣祖に「光海君を世子にしましょう」と提案しました。
その後。李山海たち東人派は「西人派が独断で世子を決めようとしている」と訴えました。
貴人·金氏も「西人派の左議政・鄭澈が光海君を世子に決めて、信城君を排除しようとしている」と訴えました。
鄭澈は左遷され、東人派の柳成龍が左議政になりました。鄭澈は陥れられたのです。
信城君は東人派と西人派の政争に利用された形です。
でも、貴人·金氏はもちろん信城君を世子にしようと考えていました。宣祖も信城君を世子にしようと思い始めていました。
その後。朝鮮は豊臣秀吉から「朝鮮は明への道案内をせよ。断る場合は朝鮮を攻める」と要求を突きつけられ、その対応を巡って東人派と西人派が対立。
最終的に「秀吉は攻めてこない」と判断した東人派が政治の主導権を握ります。
ところが今度は李山海と柳成龍が鄭澈の処分方法を巡って対立。李山海の南人派と、柳成龍の北人派に分裂して争いました。
その間。世子の問題や朝鮮の防衛の問題は棚上げになりました。
重臣たちは政敵を追い落とす材料に使っただけで、本気で信城君を世子にする気はなかったのです。
日本軍襲来で避難中に死亡
1592年4月14日。豊臣秀吉は日本軍に明への出兵を命令。文禄の役(壬辰戦争)が始まりました。
4月15日。日本軍が釜山に上陸しました。
4月28日。朝鮮の防衛部隊が壊滅したという報告を聞いた宣祖たち朝廷の重臣は避難を決定。
そして王に万が一のことがあったときのため、世子を決めることになりました。
戦時なので後継者にはリーダーとしての能力が求められます。まだ14歳の信城君では国をまとめられません。
宣祖は重臣たちにしつこく言われて仕方なく光海君を世子に決めました。
李山海や柳成龍は光海君の世子に反対して信城君を世子にしようとしていたのでは?と宣祖も思ったかもしれませんが。李山海や柳成龍は西人派を排除する口実に使っただけです。
4月29日。宣祖は世子を発表するとその日の夜。雨の降るなかを都の漢城を脱出しました。
宣祖・王妃・貴人金氏と信城君(四男)や弟の定遠君(五男)は籠に乗り。世子になった光海君は馬に乗り、李山海や柳成龍たち臣下は徒歩で漢城を脱出しました。
4月30日の夕方。開城に到着しました。
5月4日。宣祖は漢城が日本軍に占領されたのを知り、開城を出ました。
5月8日。宣祖は平壌に到着しました。信城君も宣祖といっしょに移動しました。
宣祖は臨津江を平壌を守る防衛ラインにします。
5月29日。「日本軍が臨津江を渡った」という報告を受けて、宣祖は信城君と定遠君を先に平安道寧辺に避難させました。
寧辺は朝鮮の北西部の守りの重要拠点。寧辺ではかつて高麗の姜邯賛(カン・ガムチャン)が契丹と戦って退けています。
ところが、寧辺にも日本軍が迫り信城君の身が危なくなってきます。
12月8日。義州に向かう途中で病気になり死亡しました。享年14。
遺体は臨時に義州に安置されました。
一緒に逃げていた弟の定遠君は無事でした。
信城君は他の王子ほど体は丈夫ではなかったようです。
信城君の死後、仁嬪金氏の野望は実現した?
同母弟の定遠君は生き延びました。
ところが定遠君は臨海君と同じくらい評判の悪い人物だったので、仁嬪金氏は自分の息子を世子にするのを諦め。光海君の支持にまわりました。
信城君の死とともに仁嬪金氏の夢も消えてしまいました。
ところがその後、定遠君の息子の綾陽君(仁祖)が反乱をおこして光海君から王位を奪いました。
仁祖の誕生です。
仁嬪金氏が信城君に託した夢は孫の仁祖が叶えました。
テレビドラマ
ホジュン・伝説の心医 2013年、MBC 演:キム・ジンソン
火の女神ジョンイ 2013年、MBC 演 パク・ジュンモク
王の顔 2014年、KBS 演:ウォン・デクヒョン
懲毖録 2016年、KBS 演:ユ・スンヨン
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