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薛仁貴 唐の名将軍は大祚栄のライバル?

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

薛仁貴(せつ じんき)は唐の将軍。
唐の時代では最も有名な武将の一人です。

突厥(とっけつ、テュルク)や高句麗(こうくり、コグリョ)の戦いでは活躍しました。吐蕃(とばん、チベット帝国)との戦いで敗れ一時は解雇されます。その後も復帰と解雇を繰り返しながらも多くの手柄をたてました。

その後も中国では人気の高い武将となり、文学や劇の台座になりました。

中国のドラマでもよく登場します。

韓国ドラマでは「ソ・リンギ」の名前で敵として出て来ます。手強い存在として描かれることが多いようです。

史実の薛仁貴はどんな人物だったのか紹介します。

 

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薛仁貴の史実

いつの時代の人?

生年月日:614年
没年月日:683年

名前:薛仁貴(せつ じんき)
称号:
父:薛軌
母:不明
妻:柳氏

彼は唐の将軍。皇帝太宗や高宗に仕えました。
高句麗末期。新羅が統一したころ。

日本では天智天皇・蘇我馬子の時代です。

おいたち

若い頃は家は貧しく農業をしていました。

645年。妻に勧められて兵の募集に応じて兵士になりました。

張士貴の軍に入り高句麗遠征に参加。

郎将(将軍の下の位)の劉君昂が高句麗軍に包囲されているとき救援にかけつけ手柄を立てます。

高句麗の安市城攻略では手柄を立てようと、目立つ白い服を来て戟(げき、引っ掛けることもできる矛の様な武器)を持ち、腰に二つの弓を下げて、真っ先に突撃。高句麗軍を破って手柄を立てました。その働きが皇帝太宗に認められ游撃将軍・雲泉府果毅になりました。

長安に戻ると右領軍中郎将となり、宮城の北門を守りました。

農民から、皇帝の住む城を守る武将へと出世したのです。

654年。3代皇帝・高宗の時代。
高宗が万年宮に行幸したとき、洪水が起こりました。水が門まで達すると衛兵は逃げてしまいました。薛仁貴は怒って門に登り、大声で叫んで宮殿の人々に危機を知らせました。おかげで高宗は避難することができ、薛仁貴を忠臣と讃えました。

658年。程名振の副将になり、高句麗遠征に参加。高句麗の貴端城を陥落させました。

659年。高句麗や契丹との戦いで功績を上げました。

661年。鉄勒道行軍副総管になりました。

662年。九姓突厥(とっけつ)軍10万あまりが唐に迫りました。薛仁貴は応戦、突厥軍を降伏させました。

666年。高句麗で内乱が起こりました。争いに負けた泉男生(淵蓋蘇文の息子)が唐に助けを求めてきました。

薛仁貴は援軍として高句麗に派遣されました。高句麗軍を撃退し南蘇・木底・蒼巌の三城を落とし、泉男生と合流。

668年。扶余城を落とし高句麗攻略に貢献。
高句麗降伏後は、平壌に駐屯しました。高句麗人を乱暴に扱うようなことはせず、有能なものであれば高句麗人でも採用し治安を安定させました。

670年。 吐蕃(とばん、チベット族の国)に滅ぼされた吐谷渾(とよくこん)復興を名分にして、唐軍は吐蕃に侵攻しました。

薛仁貴は大総管となり、阿史那道真・郭待封らを率いて遠征しました。

しかし、郭待封が命令を無視したため、吐蕃に追撃されて壊滅。食料や武器も失われました。薛仁貴は仕方なく撤退しましたが、論欽陵(ガル・ティンリンツェンジュ)率いる40万の大軍に襲撃されて大敗しました。

薛仁貴は生き延びましたが、責任をとらされて位を剥奪され庶人に落とされました。

しかしその後、高句麗人が反乱を起こしたため、薛仁貴は復帰。675年ごろには、理由は不明ですが罷免されました。

681年。高宗は再び薛仁貴を将軍に戻しました。

682年。突厥が唐に侵入すると薛仁貴は撃退。

683年。70歳で死去しました。左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈されました。

 

テレビドラマ

淵蓋蘇文 SBS 2006年 演:ユ・テウン 役名:ソ・リンギ
大祚栄 KBS 2006年 演:イ・ドクファ 役名:ソ・リンギ
大王の夢 KBS 2012年 演:ソン・ミンス 役名:ソ・リンギ

他にも中国や台湾でドラマ化多数。

韓国ドラマ大祚栄にも主人公の前に立ちはだかる敵として登場しますが。現実の薛仁貴が渤海と戦ったかは不明です。

 

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