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宋 真宗 趙恒 (1) 契丹と戦って「澶淵の盟」を結ぶまで

宋真宗 4.1 宋の皇帝・男性皇族

真宗 趙恒(ちょう・こう)は宋の第3代皇帝。

2代皇帝 太宗 趙炅の三男です。

真宗 趙恒の在位中に契丹の戦いがあり。「澶淵の盟」とよばれる条約を結びました。そのため毎年、契丹に歳弊(貢物)を送ることになりました。

史実の真宗 趙恒のはどんな人物だったのでしょうか?

趙恒の若い頃から澶淵の盟を結ぶまでを紹介します。

 

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真宗 趙恒 の史実

宋真宗肖像画

宋 真宗皇帝

出典:wikipedia 宋真宗

真宗 趙恒 のプロフィール

生年月日:968年12月23日
没年月日:1022年3月22日
享年:53。

在位期間:997~1022年

姓 :趙(ちょう)
名称:徳昌→元休→元侃(げんかん)→恒(こう)

国:宋(北宋)
地位:皇帝
廟号:真宗

父:太宗 趙炅
母:元徳皇太后李氏
正室:
章懐皇后潘氏(皇子時代の正室・死後追尊)
章穆皇后郭氏(真宗 即位時の正室)
章獻明肅皇后劉氏(章穆皇后の死後、側室から皇后に)

子供:太子 趙玄祐(10歳で死亡)
仁宗 趙受益(母・李氏)

日本では平安時代になります。

おいたち

968年。東京開封府で誕生。幼名は 徳昌。

父は北宋の王族・趙光義(後の太宗 趙炅)

母は趙光義の側室・李氏。

976年。叔父 太祖が死去。

父の太宗 趙炅(趙光義から改名)が即位しました。

宋太宗肖像

宋 太宗皇帝

出典:wikipedia 宋太宗

 

趙徳昌は「元休」に改名。「韓王」に任命されました。

986年には「元侃(げんかん)」に改名。

皇太子には太宗 趙炅の長男・趙元佐がなっていました。ところが984年に太宗の弟・趙廷美が謀反の疑いで処刑されると、皇太子の趙元佐は悲しんで精神を病んでしまいました。

怒った太宗 趙炅は趙元佐を皇太子から廃して庶人に落とし。太宗の次男・趙元僖が皇太子になりました。

992年。ところが趙元僖が病死。

喪があけた995年。趙元侃が「皇太子」になりました。このとき「趙恒」に改名しました。

至道三年(997年)。太宗 趙炅が死去。

大臣の王継恩、李昌齢、胡旦たちが趙恒を廃してすでに配されていた趙元佐を皇帝にしようとしました。戸部侍郎の呂端(りょ・たん)がその陰謀を見破って王継恩たちは投獄されました。

 

真宗の時代

997年5月8日。趙恒が皇帝(真宗)に即位しました。このとき29歳。

趙恒は自分の即位に貢献した呂端を信頼して彼の意見をよく聞きました。

父の太宗が処刑した秦王 趙廷美の名誉を回復。

廃位されていた兄の趙元佐も皇族の身分に戻し太宗が取り上げた「楚王」の称号を戻しました。でも趙元佐のわだかまりは消えず、真宗が何度か趙元佐に会おうとしましたが断られました。

真宗は李沆、李至、夏侯嶠、楊礪たち皇子時代から交流のある官僚達を次々に昇進させました。この中で最も信頼が大きかったのは李沆です。

咸平3年(1000年)。呂端が死亡。

タングートへの対応

真宗が即位したとき。遼以外にタングートとの問題も抱えていました。太宗の時代、タングートの李継遷は宋から独立しようと戦いを挑んでいました。

真宗はタングートへの対応は消極的。その間に李継遷の勢力は力をつけました。

咸平4年 (1001年)。李継遷の攻撃にさらされた吐蕃(トゥプト)六谷部の首領・潘羅支が宋に支援を求めてきました。真宗は潘羅支を鹽州防禦使、霊州西面都巡検使に任命。

潘羅支に援軍を送り李継遷と戦わせました。

咸平六年(1003年)。潘羅支は李継遷を破り致命傷を負わせ。李継遷はそれがもとで死亡しました。息子の李徳明があとを継ぎました。

 

契丹(遼)との戦い

宋の太宗 趙炅の時代。燕雲十六州を契丹(遼)から奪うため何度も遠征を繰り返しました。ところがそのたびに敗北。

986年の雍熙北伐で宋軍が惨敗して後は宋の活動は消極的になりました。契丹(遼)は国内での争いや遼景宗の死もあって宋への対応は後手に回っていました。

咸平2年(999年)。国内を安定させた遼聖宗は南伐を命令。宋への攻撃を始めました。
最初の数年は国境付近での戦いが中心でした。

景徳元年(1004年)。契丹(遼)の聖宗皇帝とその母・承天皇太后(蕭太后)は20万という(実際にはもっと少ない)大軍を率いて国境を超え、宋に攻めてきました。

 

宋の朝廷は騒然となり、王欽若(おう・きんじゃく)たち大臣の多くは金陵(現在の南京)あるいは西の四川に避難しようと主張しました。でも宰相の寇凖(こう・じゅん)は徹底抗戦、真宗が自ら戦場に出るべきと主張。真宗は嫌がりましたが、もう一人の宰相・畢士安(ひつ・しあん)に説得され遠征を決めました。

11月22日。真宗は軍を率いて出陣しました。

このころ両軍は黄河の渡河地点のある澶州まで到着。ところが契丹に蕭撻凜という勇敢な司令官がいて彼が前線を視察中、宋軍の矢で射られて戦死しました。親族の死に肅太后は大変悲しみ5日間の喪に服しました。

11月25日(1005年1月8日)。真宗は黄河のほとりにある南城に入りました。真宗はその場にとどまりたいと言いました。

寇凖や司令の高瓊(こう・けい)が真宗を説得。さらに高瓊は戦車の車夫を棒で殴り、真宗の乗った戦車を進ませました。真宗は仕方なく言う通りにしました。

さらに橋まで来たところで真宗はまた嫌がりました。でも高瓊に説得されて橋を渡りました。

真宗は黄河の反対側にある北城に到着。皇帝の黄色い旗を掲げました。それを見た兵士たちは「万歳」を叫んで皇帝の到着を歓迎しました。

契丹の誤算

契丹は大軍で押し寄せれば宋は逃げると思っていたのですが。宋の皇帝が出てきて徹底抗戦の姿勢を見せました。契丹軍にとって予想外の出来事でした。しかも契丹軍はものすごい速さで宋領に攻め込み、籠城している宋の城は放置してきました。ここで長引くと後ろに残してきた宋軍との挟み撃ちになります。

しかも契丹軍はあまり補充物資を持たずにスピード優先で攻めるので長期戦になると不利です。

かといって宋軍も契丹軍相手に全面攻撃をしかける勇気はありません。お互いに決め手をかいて膠着状態になりました。

持久戦に持ち込めば宋が有利ななずですが、宋にも長引かせられない理由がありました。皇帝が都を留守にしている間にタングートが攻めてくるかもしれません。真宗はいつまでも澶州にいたくありませんでした。

 

和平交渉

今回の遠征では聖宗と蕭太后は開戦当初から宋に使者を送り領土の割譲を要求していました。

宋の朝廷は拒絶。強硬派の寇準は「契丹が領土を割譲すべきで契丹が宋の臣下になるべき」と主張。真宗はさすがにそれは無理だろうと判断して却下しました。

真宗も領土を渡す気はありませんが戦う気もありません。契丹軍を止められないと思った真宗は王欽若に命令して契丹と和平交渉をさせていました。

北城にいた真宗は王欽若から手紙を受け取り「契丹は和平に応じたものの宋側の使者が来ていない」と報告を受けました。真宗は曹利用を呼んで年100万両までの条件で和平をまとめるように命令。ところが宰相の寇準は「30万以下にしないとお前を殺す」と脅迫。

曹利用は契丹と交渉。絹20万疋・銀10万両の条件で条約をまとめました。帰ってきた曹利用に真宗が結果を聞くと、曹利用は指3本をたてました。「300万」だと思った真宗は驚きましたが「30万」だと聞いてホッとしました。

「澶淵の盟」の内容

この協定で決められたのは以下の通り。

・南朝(宋)は北朝(契丹)に毎年、絹20万疋・銀10万両を引き渡す。
・お互い境界(国境)を守ること。
・逃亡者の受け入れ禁止。
・相手国の田畑を侵害してはならない。
・国境地帯の城壁や堀を新しく築いてはならない。

契丹への貢物は「歳弊」といいます。宋が「貢」という言葉を嫌ったためです。「歳」は毎年、「弊」は布。「毎年贈る物」という意味です。

この条約で興味深いのは、お互いに相手国を「大◯国皇帝」、宋を「南朝」、遼(契丹)を「北朝」と呼んでいるところ。お互いが対等な王朝だと認めています。

特に中華王朝は相手国の君主を「皇帝」だと認めませんから。宋側が契丹の君主を「大遼国皇帝」と呼び、契丹を「北朝」と呼ぶのは敗北宣言しているのと同じです。

後の時代の歴史家は宋(北宋)を統一国家だといいますが。当事者の宋自身が自分は南朝だと言っています。こうして中華社会は北の契丹(遼)と南の宋に分かれる南北朝時代に突入しました。

澶淵の盟以外の決定事項

この盟約と前後して様々な交渉が行われいくつかの取り決めができました。

そのひとつが「宋の皇帝 真宗が兄、契丹の皇帝 聖宗が弟」「宋真宗が契丹の蕭太后を叔母と呼ぶ」というもの。

貢物を渡す屈辱を味わった宋はメンツ丸つぶれ。メンツを大切にする中国人としては名目上の立場だけでも上にたたないと気が済みません。そこで「澶淵の盟」とは別の取り決めを作ったのでした。

よくこの内容は「澶淵の盟」で決まったと書かれていますが、実際には澶淵の盟で決められたのではありません。

他にもお互いの皇帝・皇后の誕生日にお祝いの使節を派遣すること。交易することなどが決められました。

この「澶淵の盟」はその後約100年間続けられ。契丹の驚異がなくなった北宋は安定した時代を迎えます。宋の発展は「澶淵の盟」の後から始まるのです。

タングートと和睦

宋と契丹の和睦はタングートにも影響を与えました。
タングートが宋に対抗できたのは宋が契丹と戦っていたからです。契丹が宋と和睦してしまうと宋はタングートに大軍を送り込めます。

李継遷のあとを継いだ李徳明はしばらくは父の仇・トゥプトの潘羅支との戦いを優先。1005年に潘羅支を討ちました。

そして1006年。李徳明は宋と和睦。真宗は李徳明を定難軍節度使・西平王に冊封しました。とりあえずタングートの驚異は去りました。

宋は大国との争いがひとまずは収まって平和な時代を迎えようとしていました。

真宗の後半生は次回紹介します。

宋 真宗(2) 宗教狂い皇帝と劉皇后の支え

 

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