綏嬪 朴氏は李氏朝鮮の第22代国王・正祖の側室。
正祖の次の国王・純祖の生母です。
朝鮮史上。側室から産まれた国王は何人かいます。
でも側室として生きている間に息子が王になったのは綏嬪 朴氏だけです。
正祖の側室で次の王を産んだ人物なのですが、いまひとつ注目度が低いです。でも朝鮮史上ではある変化のきっかけの一つになった人物でもあるのです。
史実の綏嬪 朴氏はどんな人物だったのか紹介します。
綏嬪 朴氏 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1770年
没年月日:1823年2月6日
姓:朴(パク)
名前:不明
称号:綏嬪
本貫:潘南朴氏
父:朴準源
母:原州元氏
夫:正祖
子供
純祖 李玜
淑善翁主
彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に22代正祖の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1770年(英祖46年)に産まれました。
朴準源と原州元氏の三女でした。
正祖の長男·文孝世子が若くして死亡し、文孝世子を産んだ宜嬪·成氏までもが亡くなると、跡継ぎを心配していた貞純大妃の命令で側室選びが始まりました。
当時、正祖の正妃である孝義王后 金氏と側室の和嬪 尹氏には子供がいなかったからです。
1787年(正祖11年)2月8日。三間宅により正祖の側室として選ばれました。
2月11日。綏嬪 の称号が与えられました。
翌日の2月12日に正祖と結婚式を挙げました。
三間宅を経て選ばれた綏嬪の結婚式典は王妃の結婚式典に匹敵するほど盛大でした。
おなじころ「嘉順宮」の宮号を与えられました。綏嬪と呼ばれるより「嘉順宮」と呼ばれることが多かったようです。
1790年(正祖14年)6月18日。李玜 が産まれました。後の純祖です。
跡継ぎがいないことを心配していた正祖は大変喜びました。
李玜の誕生日は、恵慶宮洪氏の誕生日でもありました。正祖にとっては二重の喜びでした。
1793年(正祖17年)3月1日。宿宣翁主を出産しました。
1800年(正祖24年)1月1日。李玜が世子になりました。
純祖の時代
1800年6月28日。正祖が死去。
一週間後の7月4日。世子の李玜が即位しました。23代国王・純祖の誕生です。
でも純祖はまだ11歳。純祖の即位と共に、大王大妃 金氏(貞純王后)の
純祖の法的曽祖母で、英祖の継妃・大王大妃 金氏(貞純王后)が3年間摂政を行いました。
大王妃は純嬪の父 朴俊元を御営大将にしました。純嬪の兄·朴宗保と朴宗慶を敬慕宮領と宗戚の執事にしました。
その後、純嬪の父 朴俊元はどんどん出世しました。工曹判書、パンドンニョン府使に任命されました。兄の朴宗甫は承旨に任命されました。
朴俊元は息子の朴宗慶(パク·ジョンギョン)にもっと特典を与えてほしいと上訴したりもしました。
出身一族の潘南朴氏は朴宗瓊を中心に勢力を作りました。
潘南朴氏は、純祖の妻の実家・安東金氏とともに勢道政治の時期における勢力家の一つになりました。
純祖は金朝淳と安東金氏に権力が集中するのを防ぐため、叔父の朴鍾慶の地位を高め、母方の潘南朴氏を起用を進めました。
純祖時代のなかごろには安東金氏が最大の勢力になり、潘南朴氏がその次の勢力になって、大きな派閥が共存する形になりました。
純嬪のおかげで潘南朴氏は栄えました。
1822年(純祖22年)12月26日。純嬪は昌徳宮の宝慶堂で死去しました。享年54。
朴鍾慶と寿嬪の死後は潘南朴氏の勢力が弱まりました。安東金氏が朝廷を牛耳る時代がやってきます。血縁で結ばれた一部の一族が権力を牛耳る政治を勢道政治といいます。
朝廷で力を持っているのが南人・西人や老論・少論の儒教の派閥から血縁集団の派閥に変わっただけです。何も良くはなってません。むしろ権力が一部の一族に偏り朝鮮の腐敗が進むきっかけになりました。
潘南朴氏の採用は安東金氏に対抗するためだったのですが。安東金氏に権力が集中するのを防ぐことはできませんでした。
妃に昇進?
26代高宗の時代。日清戦争で日本が清国に勝ちました。
下関条約で「清国は朝鮮国が完全無欠なる自主独立の国であると確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢納を廃止すること」と決まりました。
つまり、朝鮮は清国の属国ではなくなりました。
そこで高宗は自ら皇帝を名乗り国名を「大韓帝国」に変えました(通称は韓国)。
そして祖先の「正祖」に「正祖宣皇帝」、「懿王后」に「孝懿宣皇后」に、そして「綏嬪」に「顯穆綏妃」の称号を贈りました。
その後、重臣たちは「綏妃」を「皇后」にするよう要求しましたが高宗はそこまでは認めませんでした。
ただし歴史上の人物としては「綏妃」とは呼ばずに「綏嬪」と呼びます。
清国から独立していない正祖時代の側室に「妃」がいるのはおかしいですからね。
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