中国ドラマ「万華楼」には昭王 李昭が登場します。
唐の9代皇帝 代宗 第6皇子で「昭王」の称号をもっています。
昭王は実在した皇子なのでしょうか?
残念ながら代宗の息子に「昭王」の称号をもつ皇子はいません。「李昭」という息子もいません。
ではまったくの架空の皇子かというと、モデルになりそうな皇子はいます。
昭王 李昭のモデルになったのはどの皇子なのか考えてみましょう。
代宗の第六皇子とは?
まずは史実の第六皇子の紹介から。
均王の記事でも紹介しましたけれど。
代宗の皇子の数え方には2種類あります。
というのも 召王(しょうおう) 李偲(り・し)を代宗の息子に「する」か「しない」かで後の皇子の順番が変わるからです。
召王 李偲 反乱に参加した皇子
王(しょうおう) 李偲(り・し)は歴史書の「旧唐書」では代宗の第三皇子になってます。生前に李遂、李遡と名前が変わってたり、墓碑には「李傀」と書かれていたりします。
でも結論からいうと召王 李偲は代宗の子ではなく肅宗の子。召王 李偲は代宗の弟です。李偲の墓碑に父・肅宗と書いてあるからです。
李偲の母は不明。
783年。徳宗の時代。節度使の姚令言が反乱を起こしました。徳宗は都から逃げ出し。姚令言が長安を占領。皇帝を名乗り国名を「漢」にすると宣言。抵抗する皇族を殺しました。そのとき李偲は姚令言に味方して「太子太保(太子の教育係)」の地位を与えられました。
その後、反乱は鎮圧され。姚令言と李偲は処刑されます。死後、李偲は「李傀」と書かれるようになりました。
召王(しょうおう)の称号をもち反乱に参加した皇子。という意味ではドラマ「万華楼」の「昭王 李昭」のイメージに近いかもしれません。
でも召王が反乱に参加したのは代宗の時代ではなくその次の徳宗の時代です。
でも。召王が皇帝になろうとしたのではありません。それに召王は代宗の息子ではなく弟。でも今でも代宗の息子と信じてる人はいるようです。
史実の第六皇子は?
昭王 李昭を代宗の子に数えない場合。
代宗の第六皇子は 恩王 李連(り・れん)です。
李連の生母は不明。
代宗・徳宗の時代に節度使を務めた後。817年に死亡しています。謀反に参加したことはなく、皇族として役目を全うしたようです。
「万華楼」では均王を第四皇子にしているので昭王 李昭=代宗の息子説を採用しています。
昭王 李昭を代宗の子にした場合。
第六皇子になるのが 丹王 李逾(り・ゆ)です。
李逾も生母不明。
代宗・徳宗の時代に節度使を務めた後。820年に死亡しています。こちらも恩王 李連と同じように反乱することなく皇族として役目を果たして亡くなっています。
恩王 李連も丹王 李逾も皇位争いや謀反とは無関係。
「万華楼」の「昭王 李昭」が第六皇子という設定には意味はないようです。均王の弟であまり歳が離れていない皇子。くらいの意味しかないようです。
太子の称号をもつ代宗の嫡男・昭靖太子 李邈
代宗の皇太子は睿真皇后 沈氏の息子・李适(り・かつ)です。後の徳宗ですね。
李适は代宗の長男。順当に皇太子になったと思われがちです。でも李适にまったくライバルがいなかったかというとそうではありません。
なにしろ李适の母・沈氏は側室ですし、代宗が皇帝になったときには沈氏はいません。沈氏もそれほど力のある一族ではありません。
しかも代宗(当時は広平王)には正室がいて正室の息子もいます。その皇子が李邈(り・ばく)です。
李邈の生母は広平王妃 崔氏。「崔妃」ともいいます。
「麗王別姫」で悪役だった崔氏ですね。
歴史上の広平王妃 崔氏が悪い人だったかどうかはわかりませんが。母の韓国夫人は楊貴妃の姉で贅沢をして人々の反感をかってたのは確かなようです。楊一族の横暴のせいで安碌山の反乱がおきたと考えられました。そして楊貴妃と楊一族は粛清されました。
安史の乱の原因はそれだけではありません。玄宗や唐の国の仕組みそのものにも問題があります。でも朝廷の人々は誰かに責任をなすりつけないと気がすまないのです。
広平王妃 崔氏は粛清はされませんでしたが、都に戻った後。広平王からは嫌われ、若くして死亡しました。
広平王妃は崔氏の生んだ李邈も嫌いました。正妻の子ですが遠ざけられられました。でも李邈は学問好きで賢い皇子と評判でした。
安史の乱の後。李邈は祖父・粛宗からは「益昌郡王」の称号をもらってます。
762年。父の代宗が即位後。「鄭王」の称号を与えられました。節度使になったこともあります。
764年。皇太子になったのは兄の李适でした。
李适は「天下兵馬大元帥」を務めていました。李适が皇太子になったあとその職を引き継いだのが李邈です。
「天下兵馬大元帥」は軍の最高位。皇子や親王がなります。李邈は皇太子にはなれませんでした。でもそれ以外の皇子や親王の中では最高の地位にいました。
代宗の息子の中では唯一の正妻の子。素行も悪くないし、むしろ賢い。ということで周囲からは一目置かれていたようです。
このころになると代宗も李邈を信頼するようになったみたいです。信頼していなければ「天下兵馬大元帥」という軍隊の最高位を与えたりはしませんから。
しかし773年。李邈は27歳の若さでこの世を去りました。
代宗は息子の死を悲しんで3日間公務を休みました。
さすがに代宗も李邈が気の毒になったのか死後、「昭靖太子」の称号を与えました。
ちなみに、邈(ばく)という漢字。「遠い・はなれる・軽んじる」という意味があります。どう考えても皇子、しかも正妻の息子に付ける名前ではありません。どこかで改名させられているはずです。
「邈」に変えさせたのは誰でしょうか?
昭靖太子・李邈は謀反に参加したことも、野心を見せたこともありません。出自を負い目に感じつつひたすら父に従順に生きたのかもしれません。
一歩間違えれば、李邈を担いで謀反をたくらむものが出てきてもおかしくありません。
「昭靖太子・李邈」が若くして死亡した理由はいろいろ考えられます。
ドラマの「昭王」のように重臣に担がれそうになって殺されたのでしょうか?
でも全く情報がないのでなんともいえません。
と。このように。「万華楼」の昭王 李昭は実在の人物ではありませんし。直接モデルになった人もいません。
でも様々な皇子の要素を組み合わせて後継者争いをしそうな皇子を作っています。
召王 李偲や、昭靖太子も「昭王 李昭」を作るときの参考になった皇子かもしれません。
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