ドラマ「燕雲台」では蕭燕燕(しょうえねん)と韓徳讓(かんとくじょう)は恋人。将来を誓い合った仲になってます。
でも二人は強引に引き離され蕭燕燕は景宗 耶律明扆と結婚。
韓徳讓はやがて李思と結婚させられます。
蕭燕燕は後の蕭太后。聖宗 耶律文殊奴の生母で契丹の摂政太后になった人物。その蕭太后と韓徳讓は親密な仲だったと噂されます。
ドラマに描かれていたようなことは本当だったのでしょうか?
史実はどうだったのか紹介します。
蕭燕燕と韓徳讓が結婚を誓いあった仲は本当なの?
蕭太后と韓徳讓が恋仲だったという情報の出どころは「契丹」ではなく「北宋」です。
誤情報を信じて戦争をしかけて敗北
蕭太后と韓徳讓は契丹と敵対する宋でも知られていました。
894年。北宋の役人・賀令図は契丹にスパイを送っていたらしく契丹の情報を入手。
賀令図、賀懐懷の親子は北宋の皇帝 太宗 趙炅に
「皇帝は若く、母が政治を行っています。大将軍 韓徳讓はえこひいきされているので国民はうんざりしています。この機会を利用して幽州と薊州を手に入れてください」「蕭太后と韓徳讓は密通し、人を送って妻を殺し、同居して共に寝起きして食事をとっています」
と契丹に攻め込むことを提案。
北宋皇帝 趙炅は賀親子の言葉を信じて契丹を攻撃しました。しかし北宋軍は敗北。賀懐懷浦は戦死しました。
賀親子のスパイの情報は部分的には正しかったですが正確ではなかったようです。
あるいは。戦争の口実を作るために相手の上層部に問題があることにしたか。
北宋は契丹の領土を奪おうと狙っていました。太宗 趙炅は戦力さえ整えば戦争を仕掛けるような人物です。そんな戦争好きな皇帝の気をひくために適当な情報をでっち上げて自分の手柄にしようとした。というのは中国ならありえます。しかも100%ウソではなく半分は本当なのですから。
確かに蕭太后と韓徳讓は親密で二人が中心になって政治を動かしていました。韓徳讓をえこひいきしていると思う人がいたのは事実でしょう。でもそれで契丹の人々がやる気を無くしてうんざりしているのではありません。むしろ契丹はまとまって強くなってたのです。
宋の役人が蕭太后と韓徳譲の暴露本を執筆?
その情報を信じた太宗 趙炅は契丹に戦争を仕掛けて敗北。その後は契丹に戦争を仕掛けることはなくなりました。
偽情報で皇帝を惑わした賀令図は戦死しましたが。契丹のゴシップネタはよけいに北宋の反契丹感情に深く刻まれたことでしょう。
その後、北宋の皇帝が世代交代すると逆に契丹に攻め込まれました。中国史や中国のドラマでは契丹の侵略と書かれますが。先に攻撃したのは北宋ですから仕返しされただけです。
その戦いで北宋は「澶淵の盟」という屈辱的な盟約を結ばされ毎年多額の「歳弊」という名の貢物を契丹に贈ることになってしまいます。
北宋の人々が契丹にますます反感をもったのは間違いありません。
そんなとき宋の役人・路振が使者として契丹を訪問。北宋に帰って「乗軺録」という本を書きました。
その中で
「蕭太后は若いころ韓徳譲と結婚していた。耶律氏(景宗皇帝)が蕭氏を要求。韓徳譲から蕭氏を奪ったのだ」
景宗皇帝 の死後。
「韓徳譲には李氏という妻がいた。蕭綽が人を派遣して妻子を殺害。韓徳譲と蕭綽は結婚した」
「998年に韓徳譲と蕭太后の間には子供「楚王」が誕生した」と書き。
「私(路振)は1008年に契丹に使者として行ったときその子を見た。その子は10歳くらいになっていて韓徳譲に似てた」
と書いています(年は西暦に直してます)。
ドラマ「燕雲台」のストーリーとよく似ていますね。これがドラマの元ネタです。
「乗軺録」は役人が書いたフェイクニュース
「乗軺録」の内容は中国でも有名。
役人が書いた記録なら本当だと思うかもしれません。
だから蕭燕燕と韓徳譲は許嫁で引き離されたと信じている中国人は多いでしょう。
でもこの本の内容は怪しいのです。
蕭燕燕は953年生まれ。
韓徳譲は941年生まれ。
韓徳譲は蕭燕燕より12歳年上です。
998年誕生なら蕭太后45歳のときの子供になります。当時としてはかなりの高齢出産です。しかも当時の契丹には同年代の皇子はいませんでした。
路振はいったい何を見たのでしょうか?
どうやら路振が見たのは998年に生まれた韓滌魯(かん・てきろ、耶律宗福)のようです。
韓滌魯は韓徳譲の弟・韓徳威(かん・とくい)の子(韓徳譲の甥)。似ていてもおかしくありません。韓徳威は幼いころ宮中で育てられ「小将軍」と呼ばれていました。実子のいない韓徳譲の甥なので大事にされていました。耶律姓までもらっています。
韓徳譲の墓碑には妻や子がいたは書かれていません。確かにこの時代の重臣で40歳ごろになっても家族がいないのは不自然です。もしかしたら若い頃に結婚して何らかの理由で妻が死亡していたのかもしれません。亡くなった妻の姓が「李」だった可能性はあります。
その後、蕭太后と親密になったので結婚せずに歳をとってしまったのではないでしょうか。
景宗が死去したとき、韓徳威はすでに蕭太后が泣いて助けを求めるほど力をもつ重臣でした(泣いたのは蕭太后の演技かもしれません)。
その蕭太后に妻子を殺されたら蕭太后や聖宗に仕える気にはならないでしょう。他にいくらでも皇族はいます。聖宗以外の皇族を担いで蕭太后に対抗するはずです。太祖の三支はそうやって争ってきたのですから。
出世できない役人の憂さ晴らし?
路振は契丹に使者として行きました。でもその後はたいした出世はしていません。
路振は勘違いもあったかもしれません。太宗 趙炅を騙した賀令図の作り話を脚色して書いたのかもしれません。事実と嘘をごちゃまぜにして本を書いて憂さ晴らししているのです。
でも詳しい事情を知っている人間が北宋にはいなかった。だから誰も間違いを指摘できません。
いえ反契丹感情の強い北宋では皇太后や宰相のゴシップネタは大歓迎。あることない噂話が飛び交っていました。中国は流言が多い国ですし国民も信じやすいです。
こうした正史ではない話を「野史」と言います。中国や朝鮮は「野史」がたくさんあります。それを現代の私達が読んで「史実」だと勘違いしている。そんな出来事が多いです。
史実での蕭太后と韓徳讓の関係
史実での蕭太后と韓徳讓はどうだったのか。契丹の公式資料から紹介します。
蕭太后から特別扱いを受けていた韓徳讓
契丹の公式歴史書「遼史」には韓徳讓は蕭太后から“寵任”されたと書かれています。
「寵愛」でも「重用」でもなく「寵任」です。臣下として非常に大切にされていた。特別な扱いを受けていたということです。
聖宗は即位したときはまだ12歳でした。蕭太后は韓徳讓を信頼して高い地位につけて権力をもたせました。最終的に丞相(宰相)になります。当時は皇族同士の権力争いが激しい時期だったので蕭太后にとっても信頼できる実力者は貴重でした。
どれほど特別扱いしたかというと、興味深いエピソードがあります。
韓徳讓が皇族を殺してもお咎めなし
統和3年(985年)4月。皇族の耶律虎古と韓徳讓は朝議の場で口論になり。韓徳讓は衛兵の持っていた杖をとりあげ耶律虎古を撲殺しました。
耶律虎古は過去に景宗の前で韓徳讓の父・韓匡嗣を侮辱したことがありました。でもそれ以外はとくに落ち度はありません。そんな皇族を勝手に殺害した韓徳讓は批判をうけました。でも蕭太后は韓徳讓を罰しませんでした。
ちなみにドラマ「燕雲台」では韓徳讓を正当化するために耶律虎古は悪者として描かれています。耶律虎古にとっては風評被害ですね。
韓徳讓を落馬させた大臣を斬る
統和6年(988年)4月。蕭太后は擊鞠(馬に乗った者が杖で球を叩いてゴールに入れるスポーツ。ポロと同じ)を観戦していました。胡里室という大臣が韓徳讓の乗った馬にぶつかって韓徳讓が地面に落ちました。それを見た蕭太后は激怒して胡里室を斬ってしまいます。
同じ年の9月。蕭太后は韓徳讓の天幕を訪れ沢山の褒美を与え。そして付き従う臣下たちに喜びを分かち合うように命じた。とあります。
韓徳讓は蕭太后の愛人?
公式資料を見ただけでも蕭太后が韓徳讓を特別扱いしていたのは間違いありません。蕭太后は個人的にも韓徳讓が好きだったのでしょう。
息子の聖宗(12歳)が即位したときには蕭太后は30歳。韓徳讓は42歳です。韓徳讓は蕭太后より12歳年上。韓徳讓は美形だったのかもしれませんが若くはありません。でも韓徳讓には政治的な力があり頭もいい、城を守らせても強いです。
戦いに強い男は契丹にはいくらでもいます。でも強くて頭もいい。たぶん顔もいい。たぶん独身。そんな男がそばにいたら?しかも蕭太后の夫は他界。地位もある。愛人をもっても誰も文句は言いません。
それなら放置しておく手はないでしょう。
最初は息子を守るために味方にしたのかもしれません。景宗が生きているときから目をつけていたかもしれませんし。韓徳讓の妻がいないのをいいことに愛人にしようと考えたかもしれません。
色々想像はできますが。証拠はありません。
それにしても、皇族や大臣を撲殺したり斬ったりして蕭太后と韓徳讓は意外と乱暴者だったようです。
后族の宿命と計算高い蕭思温
契丹の庶民は恋愛結婚。でも王侯貴族はそういうわけにはいきません。政略結婚は普通に行われていました。
蕭思温は宰相にまでなった后族の有力者。后族の娘は皇族に嫁ぐのが当たり前。蕭思温は娘を皇子と結婚させて皇室の外戚になろうとしていました。娘たちの結婚は蕭思温と相手の皇族の思惑でおこなわれたもの。蕭思温は太祖の三支のどれが生き残ってもいいように三人の娘を違う家に嫁がせてました。
史実の蕭思温はドラマと違い、さほど有能ではありませんが政争で生き残る嗅覚というか計算高さは抜群です。
外戚になるのを諦めて早くから蕭燕燕と韓徳讓を結婚させるつもりだったなんてありえません。
男女関係にゆるい遊牧民社会
蕭太后と韓徳讓の関係がいつ始まったのかはわかりません。たぶん景宗の死後でしょう。
姉の蕭胡輦も夫の死後、美形の奴婢を愛人にしています。武則天も晩年は美男子をおいていました(唐は鮮卑の作った国なので考え方が遊牧民王朝に近い)。
遊牧民王朝や儒教が広まる前の漢人王朝では地位の高い女性が夫の死後、愛人を持つことはよくありました。景宗の死後。韓徳讓が蕭太后の愛人になってもおかしくはありません。
でも韓徳讓はどんなに出世しても身分は「宮分人(宮廷の奴隷)」。奴隷なので皇族と結婚はできません。
蕭太后は晩年に韓徳讓に「耶律」という契丹姓と「隆運」の名前を与えています。宮分人の身分からも解放しました。
でもさすがに皇太后の再婚は難しかったかもしれません。
結局、韓徳讓には子供がいないので韓徳讓(耶律 隆運)の家を継がせるために耶律家から養子を出させて後継者にしました。
蕭太后と景宗は死後、合葬されました。そして韓徳讓もその側に葬られています。そうしたのは息子の聖宗です。聖宗も韓徳讓を慕っていたので母の意思を尊重したのかもしれません。
蕭太后と韓徳讓は結婚はしてませんし、若い頃はそんなに親しくなかったかもしれません。でも晩年の二人は並の夫婦以上に信頼関係で結ばれていたようです。
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