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粛清の鬼・洪武帝 朱元璋の粛清と裏切りの記録

朱元璋 2.1 明の皇帝・皇子

洪武帝 朱元璋は明の建国者です。

朱元璋は生涯で多くの人を粛清したことでも有名です。

即位直後から何度も粛清を行いました。10万人近い人達が犠牲になったとも言われます。

朱元璋の考えで行なったものもあるでしょうし、派閥や組織の争いで犠牲になった人もいたでしょう。

でも朱元璋の名前で粛清が行われたことには違いありません。

朱元璋はどのような粛清をどういう理由で行なったのか紹介します。

 

 

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皇帝になる前

かつての仲間を賊扱い

元朝末期。白蓮教が中心になって起こした反乱がありました。彼らは頭に紅い頭巾をしていたので紅巾軍と呼ばれます。白蓮教は「明王」という救世主が現れてこの世を救うという教えで貧しい庶民に人気のあった宗教です。当然、紅巾軍の隊員も農民出身が多いです。他にも盗賊や元朝に恨みをもついわくつきの者など様々な人が参加していました。白蓮教は元に対抗して「大宋」を建国。教主・小明王は皇帝になっていました。

僧侶だった朱元璋は紅巾軍に入隊。軍の中で出世して軍団を任されるようになり。独立。

朱元璋は小明王の権威のもとで活動していました。その方が人が集まりやすいし元朝と戦う大義名分になるからです。大宋が元に敗北して小明王が窮地に陥ったときも朱元璋が助けました。

やがて朱元璋は集慶(南京)を占領して拠点にすると呉王を名乗りました。

ところがその直後。朱元璋は白蓮教を邪教と批判。紅巾は賊軍。民の暴動は許さないと宣言します。

かつて担いだ小明王を抹殺

朱元璋は面倒をみていた小明王を河に沈めて殺害させました。小明王殺害を実行した手下も後に「小明王への不義」を理由に処刑しています。

権威の落ちた小明王に利用価値はなく。地主や富裕層、知識人を味方につけた朱元璋にとって民の反乱は邪魔者でしかありません。儒学者の入れ知恵もあって朱元璋は白蓮教と縁を切って「皇帝」を名乗り「明」の建国を宣言します。

朱元璋の皇帝人生は裏切りと古い権威の粛清から始まりました。

 

空印案・地方組織解体の口実

空印とは

地方の役所は毎年収支報告書を戸部(財政担当)に提出することになっていました。ところが訂正箇所があった場合、もう一度地方に戻って書類を作成して提出しなければいけません。その手間を省くためあらかじめ地方長官の印を押した紙を用意。訂正を求められた場合、すぐに対応できるようにしていました。この紙を空印と言います。これは元時代から続く習慣でした。

いきなり役人を処分

洪武9年(1376年)。洪武帝は空印に目をつけると不正の温床だと言って空印を持っていた役人を事前通告もなく突然逮捕。それに関わった役所の官僚たちを次々に逮捕。監察官が告発すればすぐに逮捕され。パニックになった官僚たちは次々密告。捕まるとろくな取り調べもなく、辺境の兵士にされたり処刑されました。この事件では数千人が犠牲になりました。

その後。洪武帝は地方の役所を改革。それまで地方行政は行中書省が一括して管理していましたが、行中書省を廃止、新しく3種類の役所を設立して権限を分散しました。

この事件で粛清されたのは多くが南人(江南出身者)でした。彼ら南人は朱元璋が明を建国したときに現地採用した役人。

元から受け継いだ分権的な制度を廃止、皇帝に権力が集まる制度への切り替えが行われています。

 

胡惟庸案(胡惟庸の獄)中央組織解体の口実

右宰相・胡惟庸を処刑

空印事件で積極的に取り締まったのは右宰相の胡惟庸(こ いよう)と御史大夫の陳寧でした。

胡惟庸 洪武帝の寵愛をいいことに胡惟庸と陳寧は横暴になり、都合の悪い上奏文は皇帝に報告せず、役人の人事や処罰も好き勝手に行うようになります。

洪武13年(1380年)。胡惟庸と陳寧たちが謀反の罪で逮捕・処刑されました。日本やモンゴルと通じて謀反を企んだというのですが。そのような事実はありません。謀反はでっち上げです。

中書省・宰相を廃止

胡惟庸が処刑された翌日。中書省が廃止。中書省とは宰相とそれを支えるスタッフがいる行政組織。

宰相の地位は消滅しました。代わりに中書省の下部組織だった六部が皇帝直属の組織になり。皇帝の独裁が進みます。

朱元璋は組織改革の準備を以前から進めていたようです。空印の獄とセットで中央と地方の組織改革ができあがりました。

胡惟庸と陳寧が横暴な振る舞いをしていたのは確かでしょう。でも謀反はでっち上げ。それを知らない胡惟庸たちは調子に乗って中書省の解体の生贄にされてしまったのです。

地主への弾圧

ところが粛清はそれだけでは終わりません。

役人や地主たちが「胡党=胡惟庸の仲間」という理由で次々と逮捕されました。本当に胡惟庸の仲間なのか不正を行ったのかもよく分かりません。パニックになった役人や地主は自分は助かろうと次々に密告。ろくな取り調べもなく大勢の人々が逮捕・処刑されました。その犠牲者は1万5千ともいわれ。空印事件を遥かに超えました。

洪武帝 朱元璋の目的は役人と地主の癒着を断つためといわれます。彼らは税をごまかしたり、土地を不正に所有したりしていました。

主にターゲットになったのは江南の地主たち。彼らとは紅巾軍時代からの付き合いです。当然、朱政権の役人との癒着も多かったでしょう。でも「胡党」として処分された人たちが本当に不正をしたかどうかは問題ではありません。見せしめになればいいのです。「胡党」はただの口実です。

没収された土地は国のものになり朝廷の国庫を潤しました。洪武帝にとっては一石二鳥です。

このころ馬皇后が死去。馬皇后は洪武帝の行いを諌め、処刑されようとした人を助けたこともありました。でも歯止めを失った洪武帝の粛清はさらにエスカレートします。

 

 

郭桓案・汚職まみれの行政組織に激怒

胡惟庸の獄ではまだ足りないと思ったのか。洪武帝 朱元璋は馬皇后の死後、さらに粛清を続けました。

朱元璋は中書省を解体。六部が行政組織のトップになりましたが。六部内でも不正が横行していていました。

洪武18年(1385年)。戸部尚書の郭桓(かく かん)が着服で逮捕・即処刑されました。それをきっかけに役人・民間人を含めて数万人が処刑されました。

今回も本当に不正があったかどうかは問題ではなく、疑われたら終わりです。洪武帝としてはそっくり人を入れ替えてしまえば不正もなくなるだろう。厳しくすればいいだろうと思っていたのかもしれません。

 

徐達は粛清ではない

明建国最大の功労者・徐達は晩年は背疽を患っていました。洪武18年(1385年)に病死しました。

明時代の「翦勝野聞」という小説によると。

中国には腫れ物にはガチョウが毒という迷信があったので。徐達は医師からはガチョウを禁止されていました。ところが徐達を亡き者にしようとした朱元璋が徐達にガチョウの蒸し焼きを食べさせ。死を悟った徐達が涙を流しながら食べて死亡した。という話があります。

そのため徐達も粛清されたと紹介されることもあります。wikipediaや日本の歴史学者もこの話を信じていますが。

「翦勝野聞」は伝記の形をとっていますが、まだ生きている人がこの本では死んだと書かれていたり内容はいいかげん。そもそも「野聞」は世間の噂話という意味。信憑性は低いです。

 

その後も臣下の粛清に胡党を利用

胡惟庸の仲間にすれば粛清の大義名分がたつというのでその後も洪武帝は目障りと思った臣下を排除するのに「胡党」を利用しました。

洪武19年(1386年)には寧波衛指揮使の林賢が倭寇と通じていた事が発覚。胡惟庸の命令だというので処刑されました。林賢の一族は処刑されたり奴婢にされました。

洪武23年(1390年)にはモンゴルとつながっていたという理由で封績が処刑されました。封績の一族も処刑されたり奴婢にされました。

彼らの処刑は倭寇やモンゴルとの問題もからんでいて。外交方針の変化や海禁強化の理由としても使われたようです。

文字の獄

中国歴代王朝ではよく思想弾圧や文章を口実にした粛清事件が起きます。そうした粛清弾圧を文字の獄と言います。明朝も文字の獄が多かった王朝です。

朱元璋は小作人の子。寺にいたのでいくらか文字は読めますし文章は書けます。でも詳しい知識はありません。そこで朱元璋は多くの学者を採用。国作りのために活用しました。

しかし朱元璋が文官を大事にすれば紅巾軍時代の武将たちは反発。文官対武官の対立が起こります。また北方と南方出身者。淮西出身者とそれ以外の対立も起こります。

お互いに非難や陰口の応酬になり。様々な理由で逮捕者が出ました。

出自が低い朱元璋自身も知識人は嘘ばっかり言って人を見下している。口先だけだ。と不信感をもっていたので知識人にも容赦ありません。

文章の内容や文字の使い方が気に入らないと「皇帝を侮辱している」といちゃもんをつけて処分の対象にしました。

ただし「翦勝野聞」にも文字の獄で犠牲になった人が何人も書かれています。朱元璋がかつて僧だったので「光、禿、僧、生」の文字を禁止したと言います。でもこの書物は信憑性は低いです。

 

李善長の獄(続・胡惟庸案) 力を持った功臣はやっぱり不要

洪武23年(1390年)。李善長はかつて屋敷を建てようと湯和から兵士300人を借りました。湯和はこのことを朱元璋に報告。

また同年四月、京城で連座により辺境に流罪となった百姓がいたが、李善長は親戚の丁斌らを赦免するよう何度も請願した。朱元璋は激怒し、丁斌を処罰した。

別件で逮捕された丁斌が李善長の弟・李存義がかつて胡惟庸に加担していた話したことから。朱元璋は李存義父子を逮捕。すると李善長は胡惟庸の謀反を知りながら黙っていたことがわかりました。朱元璋は李善長と妻子、弟、甥など家族70人あまりを逮捕して処刑しました。ただし公主と結婚している李祺とその子は死罪は免れました。

その後、陸仲亨・費聚・唐勝宗・趙庸・鄭遇春・黄彬・陸聚・毛騏・李伯昇・鄧鎮らは胡惟庸の仲間だとして逮捕され、ろくな取り調べもなく処刑されました。さらにすでに死亡している顧時・楊璟・呉禎・薛顕・郭興・陳徳・王志・金朝興・兪通源・梅思祖・朱亮祖・華雲龍は罪人とされました。

その他、1万5千人が連座で処刑されました。胡惟庸の獄以上の犠牲者が出ました。

その後、朱元璋は罪人を一覧にした「昭示姦党録」を作り世間に公表しました。

この粛清を「李善長の獄」と言いますが。ほとんどが胡惟庸とのつながりで処刑されたので胡惟庸の獄の一部と考える人もいます。

力をもっていた功臣達を排除

今回も胡惟庸とのつながりはでっち上げ。「李善長の獄」で粛清された者の多くが朱元璋とともに明を建国した功臣たち。彼らは大地主になり政治的にも影響力を持ち続け。地位を利用して不正を働く者も多くいました。朱家による支配と国の経営のためには功臣たちは不要と考え粛清したと考えられます。

 

藍玉案・孫を脅かしそうな者は事前に排除

洪武25年(1392年5月17日)太子・朱標が病死。朱允炆が皇太孫になりました。

藍玉は建国に貢献した将軍の一人。徐達の死後も明の勢力拡大に貢献していました。しかし素行に問題があり横暴なところがあります。それでも皇太子の妻の叔父ということで大目めにみてもらってました。しかし朱標はもういません。

朱元璋は朱允炆が皇帝になれば藍玉の横暴が更に激しくなるのでは?と不安に思ったのでしょう。

洪武26年(1393年)。朱元璋は藍玉を突然反逆罪で逮捕。凌遲刑に処され、家族三代が皆殺しとされました。

藍玉と関係の深かった多くの将校も「反逆党」として逮捕されろくな調査もなく処刑されました。彼らの家族全員も処刑。さらに諸将や役人が処刑され、犠牲者は1万五千人にも達しました。

その後も朱元璋は一部の官僚を「胡藍党」として処刑しています。

藍玉は普段から自分の地位に不満で朱元璋にもっと地位を挙げてほしいと言っていましたし。民の田を奪ったり、奴婢が悪事を働いたり、奴婢の犯罪を弾劾した役人を追放したり、家族が塩の密売したり。横暴なのは間違いないですが謀反を計画したという証拠はありません。

朱元璋がいなくなれば幼い皇帝を操って自分が権力を握れる可能性もあるのですから。このタイミングで謀反を起こすとは考えられません。

朱元璋は自分の死後、朱允炆が皇帝になったときに藍玉や功臣達が皇帝の地位を脅かしたり権力を握ったりしないようにしたかったのでしょう。

 

粛清で作った?明300年

 

こうして洪武帝 朱元璋は即位の前後から晩年まで粛清を続けました。晩年になって粛清を行う権力者は多いですが。朱元璋は力をもった途端に粛清を初めて晩年まで続けました。

朱元璋は生涯で10万人近い人たちを粛清したとも言われます。

朱元璋は一緒に国を作った人たちを粛清しまくりました。そのせいで有能な武将・役人も大勢犠牲になりました。

建文帝の時代。人材不足は致命傷になりました。皇帝を支える重臣や武将に有能な人材が少なかったのです。おかげで叔父の燕王 朱棣に皇帝の座を奪われてしまいました。建文帝は祖父の余計なおせっかいで皇帝の座を失ったも同じです。

でも朱元璋の作った独裁制度のおかげで?明は約300年続きました。中国で王朝が300年続けば長い方です。

それにしても粛清で犠牲になった人は多いのですけどね。

 

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