北周武帝・宇文邕(うぶん・よう)は北周の第3代皇帝。
北周の皇帝になった後、独裁的な権力を持っていた宇文護を暗殺。
北斉を滅ぼして華北を統一しました。
北周の全盛期を築いた皇帝です。
日本でも「独孤伽羅」や「独孤皇后」「蘭陵王妃」など中国南北朝時代を舞台にした中国ドラマが放送されて知られるようになりました。
ちなみに
宇文邕の生没年は
生年:543年。
没年:578年。
皇帝在位:560-578年
享年:36(数え歳)
妃嬪たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
正室
阿史那(アシナ)皇后
生年 551年
没年 582年
享年32。
在位:568~578年
皇太后
578~582年
父は突厥皇帝の木汗可汗(ムカンカガン)。突厥は北周よりも強い力をもっていた大国でした。
565年に北周武帝・宇文邕が突厥に使者を送り婚姻が成立。
658年に阿史那(アシナ)氏が北周に来て宇文邕と結婚、皇后になりました。
武帝・宇文邕は阿史那氏を丁重に迎えましたが、突厥出身の彼女を好きではなくそっけない態度でした。同盟のための形だけの皇后でした。北周と突厥の関係を心配した臣下たちは宇文邕を諌めたので、宇文邕は阿史那氏を大事にするようになったといいます。
阿史那氏がきたことで西域の文化や音楽が長安に伝えられました。
沈皇后
生年 不明
没年 不明
在位 不明
歴史書には書かれていない謎の皇后。
沈家の墓碑には沈勰の娘が周武帝宇文邕の皇后になったと書かれています。沈勰は西魏と対立していた南梁の安陸郡の太守でした。
550年西魏の楊忠たちに攻められて降伏しました。捕虜になった南梁の武将や家族は長安に送られました。沈勰は西魏~北周の役人になります。
沈氏も長安に連れて行かれて後に宇文邕の妻になったのかもしれません。
宇文邕の正妻は阿史那氏ですが、結婚したのは宇文邕が皇帝になった後の25歳のとき。その間、正室がいないのはおかしいので誰かが正室にいたはずです。
もしかすると沈氏が正室だったのかも知れません。そして何らかの理由で死亡。
それか、突厥と同盟するため皇后の座を開けなければいけないので沈氏を廃位にして記録から消したのかもしれません。
逆に側室だったのを沈氏側が盛ってる可能性もありますが。詳しいことはわかりません。
ちなみに。
沈勰の子孫が唐に仕えた沈易直。その娘・沈珍珠が李俶(代宗)の側室で、徳宗の生母になった 睿真皇后沈氏 です。
側室
李妃
父は西魏柱国の李虎。
李虎は宇文泰や独孤信と一緒に戦った西魏の将軍。
李虎の息子が李昞。
唐を建国した李淵は李虎の孫です。
李娥姿(り・がし)
生年 535年
没年 588年
554年。西魏は梁の都・江陵を攻撃して攻め落とします。西魏は江陵の人々を捕虜にして長安に連行しました。
平民だった李娥姿(り・がし)とその家族も西魏に連行されました。宇文泰は李娥姿を宇文邕の側室にしました。
美しかった李娥姿は宇文邕に寵愛され、宣帝・宇文贇と漢王・宇文賛を生みました。
宣帝・宇文贇即位後は天皇太后になりました。
隋建国後は、息子の宇文賛が処刑され。
李娥姿は出家して尼寺で一生を終えました。
子供:
宣帝・宇文贇(559~580年、病死)
漢王・宇文賛(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
庫汗姫
生年 不明
没年 不明
詳細は不明。
子供:
秦王・宇文贄(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
曹王・宇文允(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
馮姫
生年 不明
没年 不明
詳細は不明。
子供:
道王・宇文充(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
薛世婦
生年 不明
没年 不明
詳細は不明。
子供:
蔡王・宇文兌(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
鄭姫
生宇文元
生年 不明
没年 不明
詳細は不明。
子供:
荊王・宇文元(560年代~581年、隋文帝・楊堅によって処刑)
鄭氏
北斉の武成帝(ぶせいてい)高 湛(こう たん)の長男・高綽(こう しゃく)の妻。
574年。高綽が謀反の濡れ衣を着せられ処刑。遺体は興聖仏寺に埋められました。鄭氏は未亡人になりました。
577年。北斉が北周に滅ぼされたあと、北周に連れて行かれ武帝・宇文邕の側室になりました。
鄭氏は元夫・高綽の遺体を埋葬し直すように希望しました。武帝は高綽の遺体を永平陵の北に埋葬しました。
高綽の元妻だった鄭氏が、宇文元の母・鄭姫と同一人物なのかはわかりません。
ドラマではよく宇文邕と独孤伽羅が恋人のように描かれていますが。そのような記録はありません。作り話です。
宇文邕には7人の息子がいました。病死した宣帝・宇文贇以外の6人は全て楊堅が隋を建国したときに処刑されました。他の宇文家の男子もほとんど処刑されています。
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