楊礼寿(ヤン・イェス)は16世紀の李氏朝鮮の医官。
楊礼寿は実在の医官。明宗、宣祖時代に御医を務めました。
韓国ドラマ「許浚(ホジュン)」にも登場する御医です。
宣祖時代には許浚(ホ・ジュン)も内医院にいたので許浚の上司だったことになります。
史実の楊礼寿(ヤン・イェス)どんな人物だったのか紹介します。
楊礼寿(ヤン・イェス)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1597年か1600年?
名前:楊礼寿(ヤン・イェス)
字:敬甫
号:退思翁
地位:御医
本貫:河陰楊氏
父:不明
母:不明
妻:不明
子供:不明
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の13代 明宗~14代 宣祖の時代に活躍しました。
日本では戦国時代の人になります。
楊礼寿(ヤン・イェス)の生年は不明。
一説には1530年生まれともいわれます。
明宗の時代
時期はわかりませんが医官になり。
王族の診療を行う内医になりました。
楊礼寿は優秀だったらしく世子の治療を任されました。
1563年(明宗18年)。明宗と 仁順王后 沈氏の息子・順懐世子を治療。ところが順懐世子はなくなってしまいます。
そのため楊礼寿は責任をとらされ投獄されました。
しかしその後、復帰。
1565年(明宗20年)。楊礼寿は御医(オイ)になりました。
御医とは王やその家族を治療する最高位の医官です。
15676年(明宗22年)。明宗が死去。34歳という若さでした。
このときも楊礼寿は責任をとらされ投獄されました。
「医林撮要」の校正を行う
楊礼寿は医学書の編纂にも関わっています。
「医林撮要」は最初に医官の正先撰が執筆。その後、楊礼寿は朴世舉、孫士銘とともに「医林撮要」の校正を行いました。宣祖時代に発行されました。
全13巻。1~6巻は内科、7~8巻は顔面疾患、血液症候群、黄疸など、9~10巻は外科疾患、11~13巻は婦人科・小児疾患に分かれています。多くの処方が載っている実用的な医学書といわれます。東医宝鑑の編纂時にも参考資料として使われました。
宣祖の時代
宣祖が即位。
その後、釈放され。通政大夫(正三品上)になりました。
1586年(宣祖19年)。嘉義大夫(従ニ品下)に昇進。
1595年(宣祖28年)。中枢府同知事(従ニ品)を務めた後、再び御医になりました。
東医宝鑑の執筆に参加
1596年(宣祖29年)。宣祖は医学書の編纂を命令。
この編纂を行ったのが、世子・光海君の治療の功績を認められた許浚の他、楊礼寿・李命源・鄭碏・金応鐸・鄭礼男らでした。
楊礼寿も編纂作業に参加しましたが。
1597年(宣祖30年)。丁酉戦争(慶長の役)が始まったため、編纂作業は中止になりました。
楊礼寿はその後どうなったのかわかりません。
戦争の最中の1597年に死亡したという説と、1600年まで生きていたという説があります。
その後は許浚が編纂を続け、15代 光海君時代の1610年に完成。
1613年に「東医宝鑑」という名前で発行されました。
「東医宝鑑」といえば許浚(ホ・ジュン)が完成させた医学書として有名ですが、最初のころは楊礼寿たち宮中の医官も関わっていました。
楊礼寿が書いた「医林撮要」も参考資料として使われました。
テレビドラマ
ホジュン・宮廷医官への道 1999年、MBC 演:チョ・ギョンファン
ホジュン・伝説の心医 2013年、MBC 演:チェ・ジョンファン
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