耶律留礼寿(やりつ・りゅうれいじゅ)は10世紀後半の契丹(遼)の皇族。
太祖の三支のひとつ。仲父房の家系。
父は耶律喜隠(やりつ・きいん)
祖父の耶律李胡(やりつ・りこ)は太宗 耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ)の弟。
太祖の三支は代々権力争いを続けてきました。
父の耶律喜隠は謀反を計画して投獄されました。
その後、遼(契丹)国内の漢人兵が反乱を起こし留礼寿もその反乱に関わります。
しかし反乱は鎮圧されました。
史実の耶律留礼寿はどんな人物だったのか紹介します。
耶律留礼寿の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:981年
姓 :耶律(やりつ)
名称:留礼寿(りゅうれいじゅ)
国:遼(契丹)
民族:契丹
父:耶律喜隠
母:蕭氏(蕭綽の姉)?
彼は5第 景宗の時代の人物です
日本では平安になります。
おいたち
生年は不明。
父は耶律喜隠(やりつ・きいん)。
契丹皇族。太祖の三支のひとつ仲父房(耶律李胡の家系)の系譜です。
祖父は太宗 の弟・耶律李胡の孫。
母は不明。
耶律喜隠の正妻は皇后 蕭綽の姉・蕭氏。
蕭氏の名前は記録に酔ってまちまちで夷懶とも伊勒蘭ともいわれます。ドラマ「燕雲台では烏骨里」。
留礼寿(りゅうれいじゅ)の母についてのとくに記録はありませんが、一般的には蕭氏の子だと考えられています。
景宗の時代・反乱未遂
保寧9年(977年)。景宗 耶律明扆は耶律喜隠に「西南招撫使」という役職を与えました。吐蕃(とばん:チベット)方面の部族の管理と防衛を任せました。
軍隊の指揮権を与えられた耶律喜隠はさっそく自分の部隊の育成に取り、皇帝の座を狙います。
乾亨2年(980年)。喜隠の動きは景宗に知られ、景宗命令で耶律喜隠は捕らえられ祖州に流刑になりました。喜隠には手錠がはめられ、円形の収容所が建設されそこに投獄されました。
息子の留礼寿にお咎めはありませんでした。
宋兵の反乱
乾亨3年(981年)。景宗 耶律明扆は軍を率いて祖州で宋軍と戦いました。宋軍は敗れ兵が遼軍の捕虜になりました。
契丹(遼)は捕虜の扱いは漢人王朝に比べれば寛大で捕虜になった宋兵らは居住地を与えられ遼の民として暮らしていました。でも素直に服従する者ばかりではありません。
5月。上京(現在の内モンゴル自治区赤峰市巴林左旗)の200人ほどの漢人部隊が反乱を起こしました。彼らは新しい王をかついで独立しようと考えました。そこで監禁中の耶律喜隠を救出しようとしましたが、守りが堅く救出はできませんでした。
そこで耶律喜隠の息子・留礼寿を自分たちの王に担ぎました。
契丹軍の上京留守が出動して反乱軍は鎮圧されました。留礼寿は捕らえられました。
7月。耶律喜隠と留礼寿は処刑されました。
この反乱で留礼寿がどの程度積極的に反乱に関わっていたのかはわかりません。留礼寿が漢人の兵たちをそそのかしたのか。反乱軍に担がれただけなのかはわかりません。でも彼の存在が反乱を正当化する口実に使われたのは確かです。
ドラマ
燕雲台
2021年、中国 演:周思羽
ドラマでは太祖三系之仲父房の家系の耶律喜隠と
后族の蕭烏骨裏の一人息子。
態度が横暴で伯母の蕭胡輦からはあまりいい印象を持たれていません。父の喜隠もそんなに優秀ではありませんが、父よりも更に出来が悪そうな人物として描かれます。
41話で父・耶律喜隠を救出するため反乱軍を組織。
景宗が遠征したスキを狙って挙兵しますが、逆に鎮圧されてしまいます。
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