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「四皇子胤禛が十四皇子 胤禵から皇位を奪った」雍正帝が悩まされた風評被害

大清 1.3 清の皇子・男の皇族

雍正帝は大清帝国の第5代皇帝。

清朝がもっとも栄えていた康煕~雍正~乾隆時代を支えた皇帝のひとりです。で0も人気の高い康煕帝・乾隆帝にはさまれていまいち存在感の薄い皇帝といわれます。

雍正帝は即位した直後からデマに悩まされました。そしてデマの取締りを行い、皇子たちを失脚させていきました。

この記事では雍正帝即位後に流れたデマと。最大のライバルだった八皇子へのあつかいについて紹介します。

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雍正帝の即位後に流れた噂

1722年12月20日(康熙61年11月13日) 康熙帝が死去。四阿哥・胤禛が即位しました。

雍正帝の時代が来ました。ところが雍正帝の即位直後から「四阿哥が皇位を奪った」という噂がながれます。

雍正帝の即位後。世間に流れた噂には次のようなものがありました。

十の漢字を書き換えた

康煕帝の遺言に「傳位十四子」と書かれていたのを「傳位于四子」にしたという噂が流れました。

「十」の漢字に横線を継ぎ足して「于」にした。

つまり「十四」を「于四」にした。

「于」は「~に」という意味なので。「傳位于四子」は「四子に位を継がせる」と読めます。

そして「康煕帝は十四皇子 允禵に皇位を継がせようとしたのに四皇子が奪ったのだ」

という噂を広めたのです。

ところが清朝時代の正式な文書では「称号」+「順位」+「本名」と書きます。

当時の勅書には「雍親王 皇四子 胤禛」と書かれています。線を引いただけで偽造できるものではありません。

ちなみに「 皇◯子」と書くのが中華王朝の正式な書類の書き方。格式張った言い方をしない普段の生活では「◯阿哥」と呼ぶことが多いです。

遺言などの大切な文書には「十四子」という省略した形だけでは書かないのです。

もし康熙帝が胤禵に継がせたいと思ったら「貝勒 皇十四子 胤禵」と書いていたはず。これを「雍親王 皇四子 胤禛」に書き換えるのは無理です。

また。康熙帝の遺言は漢字だけでなく、満洲語でも書かれていました。

清朝を造ったのは漢人ではなく満洲人です。満洲人は仕事では漢字を使います。でも普段は満洲語を使っています。公式な書類でも漢字と満洲語の両方で書かれているものもあります。清朝の支配者層は満洲人ですから彼らに理解できなければ意味がありません。

普段漢字を使ってる中国人はもちろん日本人も「書類は漢字だけ」と勘違いしやすいのですが。皇帝の遺言は漢字と満洲語で書かれているのです。

漢字を書き換えることができたとしても満洲語も書き換えないと意味がありません。

手のひらに書いた「十」を指で隠した

また、世間に流れた噂話には

康煕帝は臨終の間際に大臣の隆科多(ロンコド)の手に筆で「十四」と書いて皇子たちに見せた。

ところが、四阿哥に買収されていたロンコドが「十」を指で隠して「四」だけを見せた。

とか。

「十を舐めて消して四だけにした」。

という噂が出回りました。

でも次期皇帝を決める大事な遺言を「大臣の手のひらに書いて終わり」なはずがありません。

真偽はともかく。様々な噂が出回った結果。

即位したばかりの雍正帝はいきなり批判にさらされてしまったのです。

上に紹介した噂は清朝時代に出回った噂ですが。現代のドラマや物語でもよく使われるネタです。

四皇子 胤禛は本当に皇帝の座を奪ったの?

確かに遺言書をまるまる偽造すればできないことはないですし。康熙帝の命令を受けた隆科多(ロンコド)は胤禛の育ての親・孝懿仁皇后 佟佳(トゥンギャ)氏の兄弟です。

隆科多が義理の甥のために遺言を偽造した可能性を疑われても仕方ありません。そう思わせる立場です。でも孝懿仁皇后が育てたのは胤禛だけではありません。他の皇子でも良かったはずです。

でも、歴史的にみれば康熙帝が四皇子 胤禛を後継者に選んだ可能性は高いです。

康熙帝時代の末期。皇太子・胤礽を廃した後。康煕帝は三皇子 胤祉と四皇子 胤禛に皇帝業務の補佐をさせていました。

とくに胤禛に対しては皇帝の代理を務めさせることもありました。四皇子 胤禛も皇帝の代役を立派に務めていました。

三皇子 胤祉は学問好きですが政治にはあまり興味がありません。頭はよくても自分がリーダーになるタイプではありませんでした。

あと、胤禛の子・弘暦(後の乾隆帝)が康煕帝から優秀な子だと非常に可愛がられていた。というのも胤禛には有利に働いたでしょう。

康熙帝は十四皇子 胤禵をかわいがっていたと言うので康熙帝があと10年長生きして十四皇子 胤禵が十分な成果をだして、子供にも恵まれていればわかりません。

康熙61年(1722年)の段階では 四皇子 胤禛が最も皇帝にふさわしい人物だったのは間違いありません。

雍正帝は 45歳(数え歳)で皇帝になりました。皇帝の補佐もしてきたので政治の経験も十分にあります。

 

(出典:amazon)

今回 参考にした本

人の言葉は凶器

歴史の本や歴史研究の場ではこういった噂話は「民衆のたわいない噂話」とさらっと流されることが多いのですが。現代と違って漢文を書ける庶民はほとんどいない時代(王朝時代の中国人にとっても漢文を書くのは難しいのです)。テレビやインターネットもない。宮中の様子が公開されることもない。

そんな時代になぜ宮中の出来事が噂話になるのでしょうか?

なぜ病床の康熙帝のそばにいるのが隆科多(ロンコド)だと知っているのでしょうか?

なぜ康熙帝の臨終の間際に皇子たちが集められたのを知っているのでしょうか?

なぜ次の皇帝が四皇子ではだめで十四皇子でなければいけないのでしょうか?

それは意図的に情報を流す人がいるからです。

敵に都合の悪い話を流して敵を陥れる。
政治的な勝負で負けた腹いせに評判を落とす。
暴君・暗君の噂を流して反体制運動をもりあげる。

歴史の記録を残すのは学者や知識人です。そういった人々が目にする「世間の噂話」は「情報戦」の名残なのです。

「ペンは剣よりも強し」とヨーロッパの作家が言いました。事実、言葉で相手を陥れたり命を奪うことはできます。

言論が武器より残酷だったりすることはよくあります。

むしろ人間社会が大きくなれば情報は爆弾よりも怖い兵器になります。

そして、中国では昔から情報を操って相手を陥れる方法がいくつもあります。

現実に皇太子・ 胤礽は本人の素行も問題でしたけれど、陥れられた部分もありました。

策略の怖さをよく知る雍正帝は噂話でも放置していたらまずいと考えました。

噂の元を断たないと反乱が起きるかもしれません。

十四皇子をことさら持ち上げるのは十四皇子を支持する派閥が関わっているから。もともと十四皇子派は八皇子を支持する派閥でした。

八皇子が康熙帝の信頼を失ったので十四皇子に乗り換えただけです。

となると噂の出どころは八皇子と十四皇子の派閥の可能性大。

敵は兄弟の中にあると雍正帝は考えました。

雍正帝は皇子や重臣を見張るため密偵を放ちます。

抜擢人事で八皇子を親王にする

雍正帝は即位すると八皇子・允禩、十三皇子・允祥、馬齊(マチ)、隆科多(ロンコド)を総理事務王大臣という清朝で最高の役職につけました。

さらに雍正帝は允禩に廉親王、允祥に怡親王の爵位を与えました。

雍正帝の兄弟は「胤」の字を「允」に変えました。皇帝の本名の漢字は使ってはいけないからです。

隆科多は康熙帝の側近だった大臣。

馬齊も大臣。富察(フチャ)氏出身。後の乾隆帝の正室・孝賢純皇后や傅恒の伯父です。八皇子・ 胤禩を支持する派閥の重鎮でしたが、それが理由で康煕帝に罷免され監禁された経緯があります。職に復帰後は胤禩への支持をやめて胤禛を支持していました。

この2人の大臣はもともと康煕帝時代から要職にあった人たち。

十三皇子・允祥は雍正帝が一番信頼する弟。

そして八皇子・允禩は皇太子を陥れ(少なくとも康煕帝はそう思っていました)、皇位争いでライバル関係にあった人物です。

最大のライバル允禩を追い詰める

八皇子・允禩はあまりにもの待遇の良さに「首がつながってゆくのか心配」と親類や親しい人に漏らすほど不安になりました。

もちろん雍正帝はただ高い地位を与えるだけではありません。高い地位を与えた者にはそれなりの働きを期待します。

允禩にも次から次へと任務が与えられました。満足のいく結果が得られないと雍正帝から容赦なく叱られます。

結局、允禩は朝廷の人員整理の任務に失敗、役人たちが暴動をおこしてしまいます。雍正帝は廉親王の爵位を剥奪しました。

その後も理由を付けて允禩から地位を奪っていきます。允禩は皇族の地位を奪われ。ついに名前を「アキナ」に変えられてしまいました。意味は「犬」。

八皇子の酷い扱いに世間ではまたも噂が流れます。

「八仏が囚われた、十月、蜂起しろ」
「八仏」とは八皇子・ 允禩のこと。かれは人格者だと評判が高かったのです。少なくとも彼らの支持者はそういう評判を流していました。10月は雍正帝の誕生月。八皇子は悪くない、悪いのは雍正帝だ、反乱を起こせ、という歌です。

八皇子は罪に問われ独房に入れられました。

1726年10月5日(雍正4年9月10日)。腹の病気で死亡しました。

監禁中に死亡したので様々な噂が流れます。人々は「毒殺されたのではないか」と噂したといいます。事実はわかりません。歴史書に書かれている「人々の噂」はたいていは諜報活動で流された偽情報「流言飛語」ですし。庶民が宮中で起きている出来事を知っているのもおかしな話ですし、噂の出どころも八皇子派なのでしょう。

でも中国や朝鮮王朝では「流刑先や監禁中に死亡」はよくあるできごとです。人知れず消されていても不思議ではありません。

確かに雍正帝の行いは度を越していたかもしれません。

でも即位したばかりの皇帝に証拠もないのに「皇帝の座を奪った」と言うのは謀反に等しい行いです。ヌルハチは子どもたちに「兄弟で殺し合ってはいけない」と遺言を残しました。その遺言がなければ処刑されていたかもしれません。(允禩は結果的に死亡しましたが公式記録では処刑でありません)

でもこれは始まりに過ぎません。

容赦のない雍正帝は他にも九・十・十四皇子を失脚・幽閉しました。さらに自分を皇帝にした隆科多や年羹堯も粛清していきます。

このあたりの執念深さというか、粘着質というか、冷酷さが雍正帝が人気のない理由かもしれません。頭がいいだけに怒らせると怖い存在です。

でも最近はただの独裁者ではなかったと見直されつつあるようです。雍正帝は噂の出どころを潰すだけでなく、派閥政治をなくそうとしていたのです。

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