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端敏公主・順治帝の養女は怖いものなしのホルチン親王福普

大清 1.4 清の皇女(公主)

 

固倫 端敏公主(こりん たんびんこうしゅ)は順治帝の養女。

父は簡親王 濟度(ジドゥ)。ヌルハチの弟の子孫になります。

母の簡親王嫡福普、養母の孝恵章皇后、祖母の皇太后もモンゴル博爾濟吉特(ボルジギト)氏出身。

モンゴルとは縁の深い人物です。

そして自らもモンゴル・ホルチン親王の王子と結婚しました。

気の強い性格だったらしく、異母弟たちとは仲が悪かったようです。

史実の端敏公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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端敏公主(たんびんこうしゅ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1653年
没年月日:1729年

姓 :愛新覚羅
名称:不明

国:大清
地位:和碩公主→固倫公主
称号:固倫端敏公主(こりん たんびんこうしゅ)

父:簡純親王 濟度
母:嫡福晉 博爾濟吉特氏
夫:モンゴルホルチン部親王・班第(バンディ)

子供:
達爾漢親王 羅蔔藏袞布(ロブザングンブ)
策旺多爾濟(テヴァンドルジ)

端敏公主の家系図

瑞敏公主の家系図

瑞敏公主の家系図

 

彼女が生きたのは順治帝から雍正帝の時代です

日本では江戸時代になります。

端敏公主のおいたち

1653年(順治10年)に生まれました。

父の簡親王 濟度(ジドゥ)は ヌルハチの甥・ジルガランの次男。満洲鑲藍旗の旗王。

母はモンゴル出身の博爾濟吉特(ボルジギト)氏

簡純親王 濟度の次女です。

順治帝の養女になる

順治帝の養女になりました。

順治帝は同じモンゴルから孝恵章皇后が嫁いでいました。ところが順治帝は側室のドンゴ氏ばかりを寵愛して、孝恵章皇后とは仲がよくありません。

それに順治帝の子供は若死にする人が多く、子どもたちがあまり成長していなかったのです。

端敏公主は同じモンゴル・ホルチン部出身で子供のいなかった 孝恵章皇后 博爾濟吉特(ボルジギト)氏に育てられました。

端敏公主は孝恵章皇后から可愛がられて育ちました。

1659年(順治16年)。モンゴル・ホルチン部の王子が紫禁城にやってきました。

皇太后(ブムブタイ)は自分の親族の王子と清朝の公主を結婚させて同盟を維持したいと思いました。そこで皇太后(ブムブタイ)はホルチン親王の王子の班第を端敏公主をの許嫁にしました。

相次ぐ不幸

1660年(順治17年)。父・簡親王 濟度が28歳の若さで死去。

順治帝は濟度に「簡純親王」の称号を与えました。

同母弟の徳塞が簡親王の爵位を引き継ぎました。

1661年(順治18年)。養父の順治帝が死去。享年24歳。

 

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康煕帝時代の端敏公主

1663年(康煕帝2年)。生母の 博爾濟吉特氏が死去。

1670年(康熙9年3月) 弟の徳塞が17歳の若さで病死。

徳塞には跡継ぎがなかったので異母兄(端敏公主にとっては異母弟)の喇布が簡親王の爵位を引き継ぎました。

モンゴル・ホルチン部の親王と結婚

1670年(康熙9年)「和碩端敏公主」の称号が与えられました。

その年の旧暦9月。モンゴル・ホルチン部の親王の王子バンディ(班第)と結婚。モンゴルへと向かいました。

モンゴル・ホルチン王家の祖先はチンギス・カンの弟のジョチ・カサル。

かつてモンゴル・ホルチン部はジュシェン(女直)のフルン国(海西女直)と同盟してヌルハチのマンジュ国と争っていました。ところがマンジュ国に敗北。和睦を結び、モンゴルの部族の中も最も早くヌルハチの配下に入りました。

ホルチン部は同じモンゴルのチャハル部と争っていたので勢いのあったアイシン国(後金)に助けを求めたのです。それ以来、後金・清とホルチン部は良好な関係が続いています。

清朝としてはモンゴル・ホルチン部とは良好な関係を続けたいので、公主を嫁がせ同盟を維持していました。

政略結婚でモンゴルにやって来た端敏公主ですが、端敏公主の生母も養母も祖母もモンゴル出身。モンゴルの言葉や習慣にすぐに馴染みました。

端敏公主が結婚した翌年。夫のバンディ(班第)はホルチン親王の称号を引き継ぎました。

バンディ(班第)はホルチン左翼中旗を率いる立場になりました。そのホルチン親王の嫡福普ともなればモンゴルの女性では最も高い地位。しかも皇帝の養女です。

端敏公主の影響力は高く、端敏公主の威圧的な態度に不満を持つ親族もいましたが逆らう人はいません。端敏公主はホルチンで最も高貴な女性として暮らしました。

夫のバンディ(班第)はモンゴルの軍団を率いて康煕帝と一緒に戦いました。ジューンガルのガルダン・ハーンとの戦いに参戦しています。モンゴルとしても同じ遊牧騎馬民族のジューンガルはモンゴル平原の支配をめぐって争っている宿敵でした。

実家を継いだ異母弟との確執

1673年(康熙20年) 簡親王の喇布が死去。

喇布の同母弟(端敏公主の異母弟)の雅布が簡親王の爵位を引き継ぎました。

どちらにしても異母弟から異母弟へ家督が移ったので良い思いはなかったようです。

あるとき、端敏公主は帰省して親戚に挨拶に行きました。そのお礼に簡親王・雅布の福普が挨拶に来ました。ところが端敏公主は簡親王福普を家の外に立たせたまま会いませんでした。簡親王福普は家に帰り簡親王 雅布に泣きつきました。簡親王は妻を慰めながら「端敏公主は元々傲慢だ。二度と彼女のもとには行かないように」と言いました。

端敏公主と異母弟の簡親王 雅布の関係は良くなかったことが分かります。

夫が他界して息子がホルチン親王を継ぐ

1691年(康熙38年) 「和碩敏公主」の称号が与えられました。

1710年(康熙49年) 夫のバンディ(班第)が死去。

長男のロブザングンブ(羅蔔藏袞布)が親王の位を受け継ぎました。

既に60歳近くになっていた端敏公主はあいかわらす威圧的で負けず嫌いな性格は変わっていませんでした。ホルチン親王の母ですから、ホルチン部にはますます逆らえる人がいません。

康煕帝も認めるの仲の悪さ

康熙56年。康熙帝が簡親王 雅爾江阿(雅布の息子)の娘の結婚相手を世話することになりました。簡親王 雅爾江阿は非常に監視やしましたがひとつだけ条件がありました。それは娘を端敏公主の息子とだけは結婚させないで欲しい。ということです。

端敏公主と簡親王家の仲は悪いので結婚は嫌だというのです。康煕帝は簡親王家が 雅布の代から仲が悪いことを知っていたので雅爾江阿の言うことを認めて返事を出しました。そしてその返事に「端敏公主は強情だから、父親だけでなく他の誰とも仲良くできないだろう」と付け加えました。

端敏公主と簡親王家の仲の悪さ個人的な関係だけでは収まらず皇帝まで知れ渡るほど険悪だったのです。

簡親王 雅爾江阿は康煕帝に忠実で人のいい人でしたがうっかりなところもあり、仕事でも時々ミスもありました。でも康煕帝はひどく罰することはなく優しくアドバイスしていました。

 

雍正帝時代の端敏公主

1723年(雍正元年) 端敏公主に「固倫端敏公主」の称号が与えられました。

大公主、四公主にも固倫公主の称号が与えられています。

和碩公主は側室の娘や、皇帝以外の皇族の娘に与えられる称号。
固倫公主は普通は皇后の娘にしか与えられない称号です。固倫公主(グルングンジュ)には「国を代表する王女」の意味があります。

皇后の娘以外でも特に重要な政略結婚の場合は「固倫公主」の称号が与えられることがあります。

端敏公主の敵・簡親王 雅爾江阿が爵位剥奪される

1726年(雍正4年 簡親王 雅爾江阿は雍正帝によって親王の爵位を剥奪されてしまいます。簡親王 雅爾江阿が以前から仕事にミスが多かったのは確かですが、他にも大きな理由があります。

この年は、八阿哥允禩、九阿哥允禟、十四阿哥允禵が監禁されたり職を剥奪された年でした。彼らだけでなく八阿哥允禩に味方した多くのものが処罰の対象になりました。

簡親王 雅爾江阿は八阿哥允禩派だったのです。そのため八阿哥派の派閥粛清に巻き込まれて処分の対象になりました。

簡親王と仲の悪い端敏公主は八阿哥允禩派とも距離をおいていました。結果的に端敏公主とその息子は助かったわけです。

1729年(雍正7年)端敏公主は死去。享年77歲。

親族や異母弟親子、康煕帝にわがままと言われつつも、公主として最高の名誉を手にして長生きしました。

TVドラマの 端敏公主

紫禁驚雷 2011年、中国 演:李詩韻 役名:愛新覚羅·端敏

皇帝の恋 2016年、中国 演:祝緒丹 役名:端敏公主
 順治帝の養女で康煕帝の義理の妹という設定は史実と同じ。
 衛琳琅の理解者で、康煕帝と衛琳琅の仲を間をとりもちました。

 

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