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述律皇后 ・耶律阿保機の妻は「断腕皇后」と呼ばれた女傑

契丹 9 その他の国や民族

述律皇后(じゅつりつこうごう)は契丹(遼)の初代皇帝 太祖 耶律阿保機の妻です。

述律氏の出身で。名前は月里朶(げつりだ、ユリド)といいます。

阿保機が契丹皇帝になると皇后になりました。

気が強くて女性で様々なエピソードがあります。阿保機が不在の時は軍を率いて首都を守りました。でも単に気性が激しいだけでなく阿保機に様々なアドバイスをしたり、智慧の働く女性でした。

阿保機の死後、後継者選びで中心的な役割を演じて太宗 耶律堯骨を即位させました。

しかし堯骨の死後、皇帝になった世宗 耶律兀欲と対立したこともあります。

遊牧民族の女性はかなりアクティブなのですが。述律皇后はとくに気が強くで活動的です。

史実の述律皇后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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述律皇后の史実

いつの時代の人?

生年月日:879年10月19日
没年月日:953年8月1日

姓:述律(じゅつりつ)氏
諱:平(へい)
小字:月里朶(げつりだ、ユリド)

国:契丹
地位:皇后→皇太后
称号:地皇后、応天皇后、淳欽皇后

父:述律婆姑
母:耶律氏
夫:太祖 耶律阿保機

子供:
男:東丹王 耶律突欲、太宗 耶律堯骨、耶律李胡、
女:耶律質古

彼女は契丹(遼)の初代 太宗~4代穆宗の時代の人物です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

879年。述律月里朶(述律皇后)は生まれました。

父は述律婆姑。(婆姑梅里ともいいます)

述律皇后の5代前の祖先はウイグルの述律糯思です。月里朶はウイグル語は話せません。すっかり契丹人になっていたようです。月里朶の出身部族は契丹右大部と呼ばれ、名門一族でした。

母の耶律氏は契丹迭剌部の首長・耶律勻徳実(やりつ いんとくじつ)の娘。

時期はわかりませんが契丹迭剌部(キタイ・デレ部)のイルキン(部族長)耶律阿保機と結婚。当時の契丹(キタイ)は遊牧民部族の連合体でした。

耶律勻徳実は耶律阿保機の祖父でもあるので、月里朶と阿保機はいとこ同士の結婚になります。

899年。長男・耶律突欲(やりつ・とつよく、後の東丹王)を出産。

902年。次男・耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ、後の太宗)を出産。

契丹国誕生

907年。耶律阿保機が契丹のカガン(皇帝)になりました。

阿保機は 天皇帝(契丹語に近いと思われるモンゴル語でテングリ・カガン)の称号を、
月里朶は 地皇后(エトゥゲン・カトゥン)の称号が与えられました。

908年。突厥系沙陀族の普王 李存勗(り・そんきょく)が契丹に使者を派遣。同盟を求めてきました。普王に即位したばかりの李存勗は後梁の朱全忠との戦いで契丹に援護してほしかったのです。普王 李存勗は契丹カガンの阿保機を叔父、月里朶を叔母と呼ぶことになりました。

911年。三男・耶律李胡(やりつ・りこ)を出産。

神冊元年(916年)。阿保機は再び即位式を行いました。
このとき阿保機は「聖天大明天皇帝」
月里朶は「応天大明地皇后」の称号が与えられました。もともとあった「地皇后」に漢字で美称(称える言葉)を付け加えたのです。

1回めの即位式は遊牧民の「カガン(遊牧民の君主)」としての即位。2回めの即位式は中華式の「皇帝」としての即位だったと言われます。

阿保機に助言

述律皇后は皇帝(カガン)の阿保機に何度も助言したり、策を考えて阿保機に教えたりしています。

幽州の劉守光(りゅう・しゅこう)が韓延徽(かん・えんき)を契丹に派遣。援助を求めてきました。このとき阿保機は韓延徽が拝礼しなかったので、阿保機は怒って韓延徽と捕らえて馬小屋で働かせました。述律皇后はこのとき「この者は節を守って屈しませんでした。賢者です。礼儀をもって処遇するべきです」と助言。阿保機は韓延徽と語り合って気にって臣下にしました。

呉の徐知誥が水をかけるとますます燃えるという「猛火油」を献上してきました。阿保機はさっそく「猛火油」を試したくなって幽州を攻めようとしました。ところが述律皇后は「油を試すのに人の国を攻める者がありますか」と言って諌めて中止させました。

阿保機が渤海国を攻めるときにも述律皇后の考えた策を採用しました。

916年。阿保機はタングートを攻撃するため遠征しました。ところが阿保機の留守を狙って室韋(しつい、黒竜江付近で暮らす遊牧民族)の黄頭部と臭泊部が契丹の本拠地を攻めてきました。このとき述律皇后は守備隊の兵を率いて室韋軍を撃退しました。この戦いで述律皇后の名声が高くなりました。

 

阿保機の死後

断腕皇后

926年。東丹国からの戻る途中で阿保機が病死。

阿保機の死後。述律皇后は殉死を希望しましたが、親戚や臣下の者が説得して殉死を止めさせました。ところが述律皇后は代わりに自分の右手を切り落として阿保機の棺桶に入れてしまいます。

そのため「断腕皇后」のあだ名で呼ばれることもあります。

反対派を粛清?

宋時代に司馬光が編纂した「資治通鑑」にはこのような話が載っています。

阿保機の死後。述律皇后は自分に従わない諸侯の妻を集め、「私は未亡人になりました。あなた達も私のようになりなさい」と言いいました。そして諸侯を集めて泣きながら「あなたたちは先帝のことをどう思いますか?」というと諸侯たちは「先帝の恩を受けて、思わないはずがありません」と言いました。すると述律皇后は「本当にそう思うならあの世に行ってお目にかかりなさい」といって諸侯を皆殺しにした。というもの。

このエピソードは「資治通鑑」とそれを元にした書物にしか載っていません。契丹に反感をもつ司馬光の捏造とも言われます。

あるいは東丹王擁立の動きを知った述律皇后が東丹王派を粛清したのを司馬光が脚色したのかもしれません。

事実はともかく。敵対する宋の人々にとってはそのくらい強烈な女性だと思われていたということです。

後継者選びを仕切る

次の皇帝が決まるまで述律皇后が稱制攝政になって契丹を仕切っていました。稱制とは皇帝に即位せずに皇帝の権限を使う立場になることです。

長男の突欲が皇太子になっていました。でももともと契丹には皇太子の制度はありません。中華王朝の制度を真似しただけの形だけのものです。

述律皇后は次男の堯骨を気に入っていました。堯骨は大元帥に任命されていて阿保機とともに遠征を行い実績を残し、臣下の人気も高かったようです。堯骨は豪快で素朴な性格で、母には素直でした。

突欲は学問が好きで漢人の文化が好きで文人たちとも交流していました。阿保機は渤海を滅ぼした後、東丹国を作り。突欲を東丹王に任命して統治を任せていました。ところが東丹王 突欲は現地の反乱を抑えられず、君主としての才能を疑われていました。

そんなわけもあって述律皇后は突欲よりも堯骨を気に入っていました。

耶律迭里が「帝位は嫡男を先にすべきです。東丹王をお立てになるべきです」と進言したところ、述律皇后は怒って耶律迭里を投獄しました。述律皇后は東丹王に不利な証言を引き出そうとして迭里を拷問しました。そして迭里は獄死しました。

述律皇后は伝統どおりに骨占いで開催日を決めて国内の有力者を集めて会議を開きました。

述律皇后は天幕の前で突欲と堯骨を馬に乗せて立たせ。集まった諸侯たちに「二人とも私の大事な子供です。でもどちらを立てていいのかわかりません。お前たちが望むものの手綱をとりなさい」と言いました。諸侯たちはこぞって堯骨のもとに集まりました。

それを確認した述律皇后は「みながそう思うのなら私は逆らえません」と言いました。

そして突欲は「大元帥は現人神のようです。内外の期待が集まっています。任せるべきでしょう」と自ら敗北宣言。突欲の本心ではなかったかもしれませんが、この雰囲気では認めるしかなかったのでしょう。

こうして堯骨が次の皇帝になりました。

 

太宗 耶律堯骨の時代

堯骨は即位後、述律皇后に「応天皇太后」、その後「広徳至仁昭烈崇簡応天皇太后」の称号を贈りました。

その後、堯骨は周囲の期待通り領土を次々と拡大。周辺国を属国化しました。

そして947年。堯骨は南に遠征。沙陀軍閥の作った後普国を攻めました。

中華社会に憧れる堯骨は南への進出にこだわりました。契丹の伝統を重んじる述律太后やその側近たちは文化も生活も違う中華世界への進出には消極的。遊牧民世界での勢力拡大を望んでいました。

しかし堯骨は首都・開封をあっさり攻略。堯骨は国名を「大契丹国」から中華風の「大遼」に変えました。ところが堯骨は開封をうまく統治できず反乱にあって撤退します。

そして遼への帰国中に堯骨は病死してしまいます。

 

皇帝を名乗る耶律兀欲と対立

堯骨の病死の報告は首都・上京(内モンゴルのバイリン左旗)にいた述律太后にも届きました。

述律太后は再び摂政になり。堯骨には蕭皇后との間に生まれた息子・述律と罨撒葛がいましたがまだ幼いです。堯骨の出陣前に皇太弟になっていた耶律李胡を次の皇帝にするため動き出しました。

ところが遠征軍にいた東丹王の息子・耶律兀欲(やりつ・こつよく)が皇帝になったと宣言します。事実上のクーデターです。

それを知った述律太后と李胡は激怒。兀欲の行いは謀反だとして討伐のための軍を編成。李胡は討伐軍を率いて、首都に向かってくる兀欲軍を迎え撃ちました。

兀欲軍は南京(なんけい:今の北京)を占領して北上。李胡軍と兀欲軍が戦いました。ところが李胡軍は敗北。

でも68歳の述律太后の怒りは更に強くなり、自ら軍を率いて李胡とともにシラ・ムレン河のほとりで兀欲軍を待ち構えました。

兵力では遠征軍を率いる兀欲軍の方が上です。両軍は河を挟んで数日睨み合いました。そこで皇族同志の戦いを止めさせようと皇族の耶律屋質(やりつ・おくしつ)が「李胡も永康王(兀欲)も太祖の子や孫です。国が他人の手に渡るわけではありません。なぜそこまで頑固になるのですか?」と述律太后を必死に説得。耶律屋質は自ら和平交渉の使者に立候補しました。

数日後。耶律屋質と大臣たちの尽力で和平交渉の場が設けられ、兀欲と李胡が出席して交渉が行われ和睦しました。兀欲は正式に3代皇帝 世宗 に即位します。

 

晩年の述律太后

でも述律太后は諦めていません。密かに李胡を皇帝にしようと耶律洪古とともにクーデターを計画しました。

兀欲は述律太后と耶律洪古を捕らえて耶律阿保機の陵墓がある祖州に移されそこで暮らしました。

王歴3年(953年)6月19日。述律太后が死去。享年75。

死後、述律太后は耶律阿保機とともに合葬され。「貞烈皇后」の称号が贈られました。後に興宗の時代に「淳欽皇后」の称号に変更になりました。

「貞烈」は「激しい・強い」。「淳欽」は「情が深い・敬う」イメージですね。

 

ドラマ

燕雲台 2020年、中国 

直接ドラマには登場しませんが。ヒロインの蕭燕燕が尊敬する人物として何度か述律太后の名前が出てきます。

 

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