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韓 明澮(ハン・ミョンフェ)は王を作った男

5 李氏朝鮮の重臣

韓 明澮(ハン・ミョンフェ)は首陽大君(世祖)の策士となり、王にした人物だと描かれる事が多い人物です。

首陽大君の後も歴代の王に仕え、時には王の決定に大きな力を持ちました。容赦ない方法で政敵を排除する一方で、世祖やその後継者を支えた一面もあります。

ハン・ミョンフェたち世祖に仕えた重臣たちの派閥は勲旧派とよばれ、対立する士林派からは批判の対象になります。

史実の韓 明澮(ハン・ミョンフェ)どんな人物だったのか紹介します。

 

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韓 明澮(ハン・ミョンフェ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1415年
没年月日:1487年

名前:韓 明澮(ハン・ミョンフェ)
号:狎鴎亭・四友堂
父:韓起
母:驪州李氏
弟:韓明溍(ハン・ミョンジン)
妻:黃驪府夫人

子供
長女:章順王后(睿宗の妃)
次女:恭恵王后(成宗の妃)

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に7代世祖~9代成宗に仕えました。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

李氏朝鮮開国の功臣で芸文館大提学を務めた韓尙質の孫。司憲府監察の韓起の息子です。

ハン・ミョンフェの家系を9代遡ると仁粋大妃の父・韓確の家系とつながります。仁粋大妃とハン・ミョンフェは同じ一族というわけです。

産まれて10ヶ月で病気になり命が危ぶまれるほどでしたが奇跡的に治りました。しかし後遺症は残り体が不自由だったといいます。

ハン・ミョンフェは父や母と死別。弟の韓明溍(ハン・ミョンジン)とともに孤児になりました。

大叔父・韓尙敬(ハン・サンドク)に育てられました。

小柄な彼は周囲からからかわれ軽蔑の中で生きていました。記憶力がよく頭のよい子供でした。ハン・サンドクはミョンフェが大物になると予想したといいます。

柳泰齋(リュ・テジェ)の門下生となって儒学を勉強しました。このころ権擥(クォン・ラム)、徐居正(ソ・ゴジェン)らと出会いました。

宰相の皇甫仁(ファンボ・イン)がハン・ミョンフェが将来大物になると予想して娘との縁談を勧めましたがハン・ミョンフェは断りました。

ハン・サンドクがファンボ・インは権力を持つから婚礼を受けいれば裕福になれるだろうと勧めました。しかしハン・ミョンフェは「義父の権威で栄華を極められるかもしれませんが、それは私の望むものではありません」と断ったといいます。

育て親のハン・サンドクが死んだあと、中樞院使・閔大生の娘と結婚しました。

ハン・ミョンフェは何度も科挙に挑戦しましたが受かりませんでした。何度も落ちる彼を周囲の者たちは嘲笑しました。

それでもクォン・ラムはハン・ミョンフェと親しくして馬車に本と酒を積み各地を旅したりしました。

クォン・ラムの紹介で申叔舟(シン・スクチョ)と出会い。首陽大君(スヤンテグン)を紹介されました。首陽大君と出会ったハン・ミョンフェは、首陽大君が優れた人物だと感じ涙を流したといいます。

1452年(文宗2年)。蔭補(科挙ではなく推薦で選ばれること)で敬德宮直(敬德宮の門番)という官職を得ました。このころから首陽大君と交流を深めました。

 

科挙を受けていたのでは官職にありつけないと考えたハン・ミョンフェはクォン・ラムとともに首陽大君を訪れ国の将来について話し合いました。

文宗が亡くなり子の端宗が即位すると金宗瑞(キム・ジョンソ)、皇甫仁(ファンボ・イン)らが政治を行うようになると、彼らの代わりに首陽が王を補佐するべきと話しました。

最初はクォン・ラムはハン・ミョンフェの考えが理解できませんでしたが、ハン・ミョンフェは「強力な指導者がこの国を安定させる」と力説しました。ハン・ミョンフェの考えに納得したクォン・ラムは首陽大君を訪ね「孔明のような人物だ」と首陽大君に言い、首陽大君が摂政をすべきと言いました。クォン・ラムの話に興味を持った首陽大君はハン・ミョンフェを呼び出して詳しく話を聞きました。そして首陽大君とハン・ミョンフェたちは意気投合し、首陽大君が摂政になるための計画を立て始めました。

ハン・ミョンフェは敬德宮直を勤めていた時に知り合った洪達孫(ホン・ダルソン)、洪允成、揚程らと交流を深め、首陽大君のために働く仲間を30人ほど集めました。

癸酉靖難

1453年。首陽大君とハン・ミョンフェは決起しました。首陽大君は直接キム・ジョンソの屋敷に向かい、ハン・ミョンフェは兵を率いて王宮に向かい、内通していた兵に門を開けさせて王宮に突入しました。

あらかじめ作成していた「殺傷簿」にもとづいてファンボ・インたち重臣たちを呼び出して殺害しました。

キム・ジョンソとファンボ・インの屋敷を襲撃し残っていた家族や残党を殺害しました。

この乱では1等功臣になります。

軍器寺判官、義禁府道士、承政院左副承旨、右副承旨などを歴任します。

1455年(世祖即位年)。端宗から譲位をうけて首陽大君が国王になりました。ハン・ミョンフェは再び承政院左副承旨に任命されました。

死六臣の処刑

1456年(。成三問たち集賢殿の学者が世祖の暗殺を計画していることがわかりました。成三問たちの監視を続け、6月に成三問たちを逮捕。死刑にしました。この時処刑された六人を死六臣といいます。彼ら以外にも800人が処刑され数千人が流刑になったといわれます。

ハン・ミョンフェは錦城大君の処刑を主張しましたが世祖は拒否しました。

1457年(世祖2年)。錦城大君が反乱を計画していることがわかり処刑しました。

この年の冬、桃源君を世子に認めてもらうために明に行き、ぶじ認められました。

ところがその年の9月。桃源君は病死しました。

世祖の次男・海陽大君(後の睿宗)に三女を嫁がせました。仁城大君を産んだ後亡くなってしまいます。

1458年(世祖3年)。明から帰国後、兵曹判書になります。国境付近に出没する女真族討伐に成果をあげ、北部の守りを安定させました。ハン・ミョンフェは学問よりも弓矢の才能があり武人としても優秀でした。

1462年(世祖7年)。右議政になりました。
1463年(世祖8年)。左議政になりました。

仁粋大妃との共闘

ハン・ミョンフェは仁粋大妃とは遠い親戚でした。桃源君が亡くなった後、宮殿を出ていた仁粋大妃のもとへ頻繁に通いました。仁粋大妃に野心があるとわかると、仁粋大妃の息子チョルサン君と自分の娘との婚姻を勧め王にすると約束しました。

権擥(クォン・ラム 、申叔舟(シン・スクチュ)とも婚姻関係を結び政治的な影響力を強めました。

1466年。領議政になりました。

1467年(世祖13年)。李施愛(イ・シエ)の反乱が起こりました。ハン・ミョンフェとシン・スクチュはイ・シエに内通した疑いで捕らえられました。しかし、イ・シエの計略だったことがわかり釈放されました。

睿宗時代

1468年。世祖が死亡し睿宗が即位しました。

シン・スクチュらとともに、イ・シエの反乱鎮圧で功績があり人望があった南怡(ナム・イ)、康純(カン・スン)に謀反の疑いをかけ処刑しました。

1469年。睿宗が病死。

ハン・ミョンヘは新しい王の即位まで代行を任される院相になりました。兵曹判書を兼ねており、人事権も手にして権力の絶頂期にいました。

桃源君の次男で自分の娘が結婚していた者乙山君(チョルサングン)を支持して次の王にしました。

成宗時代

者乙山君は即位して成宗になりました。

左議政や領議政を努めます。

シン・スクチュらとともに「世祖実録」の編集を行いました。

成宗の2番めの正室・廃妃尹氏の廃位に関わりました。

晩年

1484年(成宗14年)。70歳になったハン・ミョンヘは官職を辞任。

彼の作った屋敷が派手なことが話題になり、明や日本の使節が見学に来ると、宮廷だけで仕える日傘をつかってもてなしました。司憲府から無礼であるとして弾劾をうけ流刑になりますが、現地へ向かう途中で釈放されました。

1487年(成宗17年)。病気にたおれ死亡しました。享年73歳。

ハン・ミョンフェ亡き後、勲旧派は徐々に力を失い。政治の主導権は士林派のものになります。もともと士林派は成宗が強くなりすぎたハン・ミョンフェたちを牽制するために採用した人たちです。成宗の時代から、勲と士林派の対立が起こりました。旧派李氏朝鮮でおなじみの重臣たちの派閥争いはここから始まったといえます。

世祖の目指した強い王が収める国は世祖の死とともに終わりました。皮肉なことに世祖を王にした者たちによって強い王の国の治める国は崩壊し、重臣たちが争う国になったともいえます。

テレビドラマ

ハンミョンフェ KBS 1994年 演:イ・ドクファ
王と妃 KBS 1998年 演:チェ・ジョンウォン
王と私 SBS 2007年 演:キム・ジョンギョル
死六臣 KBS 2007年 演:パク・ヨンチョル
王女の男 KBS 2011年 演:イ・ヒド
根の深い木 SBS 2011年 演:ジョフイボン
インス大妃 JTBC 2011年 演:ソン・ビョンホ

 

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