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光海君(クァンヘグン)は暴君だったの?その生涯と家系図

光海君(クァンヘグン)の生涯と政治を解説。庶子ながら戦乱で活躍し、朝鮮第15代国王に就くも正統性の弱さから大北派と組み粛清を重ねました。内政・外交の手腕は優れていましたがクーデターで廃位。この記事では暴君と有能な王、両面から再評価します。

この記事でわかること

  • 光海君の基本的なプロフィール、在位期間、同時代の世界の出来事。
  • 庶子でありながら王の後継者となった背景と、壬辰戦争(文禄・慶長の役)での功績。
  • 王位継承の正統性の問題をめぐる明との関係と、親族や重臣への粛清の経緯。
  • 荒廃した国を立て直すために光海君が実行した政治(内政・中立外交)の実態。
  • 光海君が暴君とされてきた理由と現代における再評価の視点。

 

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光海君(クァンヘグン)の史実

光海君(クァンヘグン)はどんな人?

  • 名前:李琿(イ・ホン)
  • 称号:光海君
  • 生年月日:1575年6月4日
  • 没年月日:1641年8月7日
  • 国王在位
    1608年3月16日~1623年4月12日

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第15代国王です。

同時代の人物

光海君は日本では戦国時代~江戸時代初期の人物にあたります。

  • 日本:江戸幕府
    •  初代将軍 徳川家康(在位:1603~1605年)
    •  第2代将軍 徳川秀忠(在位:1605~1623年)
      (光海君の在位期間は徳川秀忠とほぼ同じです)
    • 第14代皇帝 万暦帝(在位:1570~1620年)
    • 第15代皇帝 泰昌帝(在位:1620年)
    • 第16代皇帝 天啓帝(在位:1620~1627年)
  • 後金

 

家族

 

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光海君(クァンヘグン)の家系図

光海君は14代国王 宣祖の子供。中宗から続く一族になります。
以下に光海君の家系図を紹介します。

光海君家系図

光海君家系図

光海君にも息子はいましたが、クーデターで光海君自身が王位を失ったため、王位は受け継がれませんでした。王位を継いだのは、クーデターに加わった甥の綾陽君(ヌンヤングン。後の仁祖)でした。

 

光海君(クァンヘグン)の生涯

おいたち

父は李氏朝鮮第14代国王・宣祖

朝鮮 14代国王 宣祖

朝鮮 第14代国王 宣祖

母は側室の恭嬪金氏

光海君は宣祖と恭嬪金氏の次男です。

恭嬪金氏は光海君が幼い頃に亡くなりました。

なぜ庶子で次男の光海君が後継者とされたの?

光海君は側室の子、つまり庶子です。嫡庶の序列を重視する朝鮮では王になるのは難しい立場ですが、光海君を王の後継者と考える重臣は多くいました。その理由はいくつかあります。

王妃に子がいない

宣祖の王妃は病弱だったため子がありませんでした。そのため、側室の子の中から後継者を選ばなくてはなりませんでした。

兄の性格に問題がある

光海君には同母兄・臨海君(イメグン)がいましたが、性格が激しく、周りの評判がよくありませんでした。臨海君を除けば、光海君が庶子では最年長でした。

後継者問題の紛糾

宣祖は40歳になるまで後継者を決めていませんでした。これに重臣たちは不安を抱き、「もう後継者問題を先送りできない」と考えたのです。

左議政・鄭澈(チョン・ジョル)は、領議政の李山海(イ・サンヘ)や右議政の柳成龍(ユ・ソンニョン)とともに、「光海君を世子にしては」と王に意見を出します。これにより、光海君が世子に決まるかに思われました。

ところが、当時王の寵愛を受けていた仁嬪金氏(インビンキムシ)が反対します。仁嬪金氏には息子の信城君(シンソングン)がおり、宣祖も信城君を世子にしようと考え始めたのです。

光海君擁立を主張し続けた鄭澈は王の怒りをかい、捕らえられました。鄭澈の処分を巡って重臣たちの意見は別れ、東人派が分裂してしまいます。

 

東人派の分裂

  • 北人派:強硬派・鄭澈を断固処分
  • 南人派:穏健派・これ以上の処分はしない。

 

壬辰戦争(文禄・慶長の役)と光海君

世子への指名と避難

1592年、日本の豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮への出兵を実行しました。これが壬辰戦争(文禄の役)です。

宣祖は漢城を離れる直前、光海君を世子に指名しました。宣祖たち王族と重臣は漢城を出て、開城、平壌、さらに義州へと避難します。

臨時の朝廷(小朝廷)の代表として

日本軍の勢いが衰えない中、宣祖がさらに奥地の義州へ避難するのに対し、光海君は踏みとどまって日本軍を防ぐことになりました。

光海君は臨時の朝廷(小朝廷)の代表となり、10人の重臣とともに寧辺を拠点に活動。各地をまわり、咸鏡道(ハムギョンド)と全羅道(チョルラド)で義勇兵や物資を集め、自らも戦闘に参加するなど活躍しました。

光海君の活動は民衆や重臣たちの支持を集めることになります。一方、義州に逃れる途中、後継者候補の一人であった信城君が死亡。戦乱の中でまともに活動した王子は光海君だけでした。

世子としての地位固め

終戦後、戦時中の活躍と信城君の死により、後継者候補は光海君しかいなくなりました。光海君は、子のなかった懿仁王后(ウィインワンフ)の養子となり、世子としての地位を固めつつあるかのように思われました。

明の干渉と後継者問題の再燃

明の世子承認拒否

1594年、朝鮮は光海君を世子にすると明に伝えました。しかし、明は「長男がいるのに次男が跡継ぎになるのはおかしい」という理由で、光海君を世子にすることを認めませんでした。

朝鮮の王や世子は明に認めてもらって正式決定となりますが、明が世子を認めないのは異例のことでした。日本との戦いで朝鮮に恩を売った明は、この機会に朝鮮を言いなりになる国にしようと考えていたといわれます。正式に世子が決定しないまま年月が流れました。

新しい王子と北人派の分裂

1602年、懿仁王后が亡くなると、宣祖は次の王妃として仁穆王后(インモクワンフ)を迎えました。1606年、仁穆王后は王子・永昌大君(ヨンチャンテグン)を出産。宣祖も永昌大君に後を継がせたいと考えたといいます。

これにより、永昌大君を世子にしようとする勢力が出現し、再び重臣たちが分裂しました。今度は北人派が分裂します。

北人派の分裂

  • 大北派:光海君を世子にしたい。
  • 小北派:永昌大君を世子したい。

以後、大北派小北派の争いが続きます。

 

第15代国王への即位と粛清

光海君の即位

1608年、宣祖は世子を決めないまま死亡。幼い永昌大君よりも戦時中の実績がある光海君を次の王にしようという意見が大勢となり、光海君は34歳で第15代朝鮮国王に即位しました。

宣祖は死の直前に光海君を王にするという遺言を残したのが根拠とされますが、仁穆王后の決定だったともいわれています。

大北派の重用と反対派の弾圧

光海君は、大北派の李山海(イ・サンヘ)李爾瞻(イ・イチョム)鄭仁弘(チョン・インホン)らを重臣に採用しました。光海君の即位に反対していた小北派の柳成龍らは弾劾を受け力を失います。

臨海君の殺害

光海君の即位に明が文句を付け、「臨海君に直接聞いてみよう」と使者を送ってきました。臨海君が生きている限り王位の正当性に文句を付けられると考えた光海君は、1609年に臨海君を流刑にしたあと殺害しました。

癸丑獄事(ギェチュクオキサ)による王子殺害

1613年、朴應犀(パクウンソ)らが起こした事件をきっかけに、大北派は「永昌大君を擁立してクーデターを起こすつもりだった。仁穆大妃の父・金悌男(キム・ジェナム)が黒幕だ」と嘘の自白をさせました。さらに、仁穆大妃が懿仁王后の墓に呪いをかけたという罪をでっちあげました。

  • 金悌男とその息子たちは処刑されました。
  • 1614年、永昌大君は江華島に島流しにされたあと殺害されました。
  • 1615年、綾昌君(ヌンチャングン)も謀反の疑いで処刑されました。(綾昌君の兄は後の仁祖となる綾陽君です。)

光海君の政権は、庶子であったため不安定でした。光海君と大北派は、王座を安定させるため多くの人々を犠牲にしました。強硬派の官僚である許筠(ホ・ギュン)や光海君付きの尚宮・金介屎(キム・ゲシ)なども計画に参加し、反対勢力を潰していきましたが、許筠ものちに粛清されます。

西人派、南人派、小北派が朝廷から追い出され、光海君と大北派への反感が広まっていきました。

大妃の廃妃と反発の高まり

1618年、仁穆大妃を廃妃(廃庶人)して幽閉しました。とくに李爾瞻と金介屎が中心的な働きをしたといいます。

これにより王権は強化されましたが、一部の家臣による官職の売買や職権乱用が広まることにもなりました。そして、大妃を廃するという行いには、光海君への反発が強まり、西人派が動き出します。

ここだけを見ると、光海君は暴君といえるかもしれません。しかし、これらの粛清の全てを光海君が命令したのかは定かではなく、光海君を支持していた大北派が率先して行なったという説もあります。それでも王としてこれを認めたのは事実であり、光海君が批判されるのは避けられないことかもしれません。

 

光海君の政治と最期

荒廃した国の立て直し

邪魔な者を容赦なく処分する一方で、光海君は荒れ果てた国を立て直すための努力もしていました。

  • 外交面:明と後金の間で中立を保つバランス外交を展開。
  • 内政面:税制や医療制度の改革を進めました。

クーデター(仁祖反正)による廃位

1623年、粛清への不満や、明を援護せず後金に配慮した外交姿勢が批判され、西人派らがクーデター(仁祖反正)を起こしました。

王宮はあっけなく占領され、光海君は王位を追われます。廃位後は流刑地で余生を過ごし、1641年に66歳で死去しました。

関連記事:光海君(クァンヘグン)の最後

 

まとめ:暴君か有能な王か

光海君(クァンヘグン)は長い間暴君とされてきましたが、現在では再評価も進んでいます。

日本との戦争では臨時政府の中心人物として義兵を率いて戦い、復興政策や外交でも現実的な手腕を見せました。その一方で、明の承認がなく王位継承の正統性が欠けたまま即位したため、支持する勢力が少なく、政権を維持するため敵対勢力を粛清したことが反発を招きました。

王子を死に追いやり、大妃を廃したこともあり、強権的で冷酷な王という評価も受けています。

周囲の支持のある状態で即位していれば、後世に名が残る王となった可能性もあります。君主にとって正統性がどれほど大切かを考えさせられる王といえるでしょう。

 

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この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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