鄭道伝(チョン・ドジョン)は朝鮮王朝初期の人物です。
イ・ソンゲの腹心となり朝鮮建国の功労者となるのですが、イ・バンウォンと対立し殺害されてしまいます。
「六龍が飛ぶ」「鄭道伝」では高麗を倒し新しい国を建国しようとする中心的な人物として描かれます。若き日のイ・バンウォンの心の師となりともに高麗打倒を目指します。
史実のチョン・ドジョンはどんな人だったのか紹介します。
鄭道伝(チョン・ドジョン)の史実
いつの時代の人?
彼が生きたのは1342年~1398年。高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初代太祖の時代の人です。
日本では室町時代(南北朝時代)になります。
おいたち
父親は刑部尙書(役所の長官)の鄭云敬。
号(ペンネーム)は三峰(サムボン)。
1360年。科挙に合格しました。高麗の役人になります。
1375年。李仁任と対立して流罪になってしまいました。
1377年。流刑生活が終わり、教育と学問の仕事をします。
1388年。李成桂(イ・ソンゲ)に仕えます。
1389年。李成桂が昌王を退位させて恭譲王を即位させると、取り立てられます。
1391年。流罪になります。
1392年。釈放されてもどってきたものの、イ・ソンゲが落馬で休養中に鄭夢周(チョン・モンジュ)から「出自が不明確」とか「身分が低い」などの理由をつけられて流罪になってしまいます。
ドジョンとモンジュは共に学んだ親友でしたが、高麗王朝に対しては違う考え方を持っていました。ドジョンは高麗を倒して新しい国を作りたいと考えていたのに対して、モンジュは高麗は残して改革を進めたいと考えていました。
ドジョン、イ・ソンゲ親子一族とモンジュは対立するようになっていたのです。
李芳遠(イ・バンウォン)がチョン・モンジュを殺害。チョン・ドジョンは釈放されました。
その後、恭譲王を退位させイ・ソンゲを王にします。
李氏朝鮮時代
高麗が滅び朝鮮(李氏朝鮮)が始まりました。
ドジョンは朝鮮王朝創設の最大の功労者となりました。財務、人事、軍事の権限がドジョンに集中しました。その力は王を凌ぐとまでいわれました。新しい国の仕組みを作り、儒教を広めました。開京(現在のケソン)から漢陽(現在のソウル)に移しました。王宮として景福京(キョンボックン)の建設も指揮しました。
ところが、あまりにも権力が集中しすぎたため。周囲から反発が起こります。ドジョンは宰相を中心として士大夫(豪族)が国を動かすべきと考えていましたが。イ・バンウォンは王に権力を集中させるべきだと考えていました。ドジョンとバンウォンとは意見が合わなくなります。
イ・ソンゲは、末息子・芳碩を後継者にしてバンウォンを政治から遠ざけます。
1398年。ドジョンは遼東へ遠征するための軍を編成します。バンォンはこの動きを自分たちを攻撃するためのものだと考えました。バンウォンは他の王子と共謀してドジョンたち重臣を殺害。世子になっていた李芳碩とその同母兄の李芳蕃を殺害しました。
この事件のあとソンゲ(太祖)は王位を退きます。バンウォンは王位を辞退しました。次男・李芳果(イ・バンカ、定宗)が王になりました。(第一次王子の乱)
そのごバンウォンが王位を継いだことからドジョンは朝鮮王朝では反逆者にされてしまいます。
しかし朝鮮王朝の基礎を作ったことから後世では再評価されています。バンウォンや他の家臣たちもドジョンの功績はみとめており、ドジョンがしようとしたことは引き継いで実現しました。
テレビドラマ
鄭道伝
龍の涙 演:キム・フンギ
開国 演:キム・フンギ
六龍が飛ぶ 演:キム・ミョンミン
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