李通(り・つう)は古代中国の武将で政治家。
新朝から後漢の時代に活躍しました。
新朝末期世の中で反乱が起きている時代に劉縯や劉秀たちに挙兵を呼びかけました。李通の説得がなければ劉縯は別として劉秀は挙兵しなかったかもしれません。
李通は劉秀の妹・劉伯姫と結婚しました。後に劉秀が光武帝に即位すると皇帝の義弟になります。
もともと裕福な家で厳しく育てられたせいか。李通は有能でしたが出世欲が薄い人物でした。
皇帝の親戚になっても謙虚さを失いませんでした。
晩年は病気になり光武帝に何度が引退させてほしいと言いましたが、なかなか引退させてもらえませんでした。光武帝も信頼していたようです。
史実の李通(り・つう)はどんな人物だったのか紹介します。
李通の史実
プロフィール
生年月日:不明
没年月日:42年
姓 :李(り)氏
名称:通(つう)
字:次元
国:新→漢(後漢)
称号:固始恭侯(死後)
父:李守
母:不明
従弟:李軼
妻:劉伯姫(寧平長公主)
子供:李守
彼は新から後漢時代の武将です。
日本では弥生時代になります。
李通のおいたち
李通の生年は不明。
南陽郡新野県(河南省南陽市新野県)の出身です。
一族は代々商売を営み成功していました。
李家は真面目で厳しい家風でした。意志が強い人が多かったようです。
李通もそういう教育を受けて育ったようです。
父は新朝の重役に仕えた李守
父の李守(り・しゅ)は新朝の政治家。
李守は身長9尺(漢の1尺は約23~24cmなので、203cmくらい)もある長身。容姿は非常に変わっていたといいます。西域から来た異民族の出身だったのかもしれません。
李守は宗卿師を務めていた劉歆(りゅう・きん)に仕えていました。
劉歆は儒学や天文学や暦を学び、新朝でも王莽の改革を支えた重臣の一人です。李守も劉歆から天文学や吉凶占いを学びました。
李守が仕えていた劉歆は漢の王室の末裔でした。劉歆は新朝では王莽に仕えていましたが、王莽の改革についていけなくなっていました。劉歆の息子は謀反に加担したという理由で殺され手しまいます。やがて劉歆と王莽との関係は破綻。劉歆は謀反を起こしましたが処刑されました。
そんな劉歆に仕えていた李通の父は「王莽の時代は長くない。漢が復興するときだ」と思ったかもしれません。
新朝に見切りをつけて打倒王莽をめざす
李通も新朝に仕え、五威将軍従事、巫県(南郡)県丞を歴任。有能だと評判でした。
新朝末期。李通は父の李守から「劉氏再振興、李氏為補佐」の予言を聞きました。予言と言っても「劉氏が漢を再興し、李氏がその補佐をする」という李守の願望のようなものです。
王莽の政治は民衆の評判が悪く。李通は役人暮らしが嫌になりました。
李家は商売をしていたので裕福です。無理に役人にならなくても生きていけます。李通は辞職して故郷に戻りました。
新朝末期には飢饉がおきて食べていけなくなった人たちが各地で反乱を起こしました。李通が暮らす南陽にも反乱が広がりました。
劉一族を担いで挙兵の準備
地皇3年(22年)。李通は従弟(実弟とも)の李軼と相談し「世の中が乱れて王莽の政権が倒れようとしている今こそ、漢を再興するため決起すべきだ」と言って劉氏を担いで挙兵することにしました。
南陽郡には劉一族がいます。その中でも劉演兄弟は人々の評判がよく、彼らこそ自分たちを受け入れてくれるに違いないと考えました。
劉秀が宛県にやってきたとき、李通は劉秀と会いました。李通は中央で学問を学んで知識を持った学者でもあったので、劉秀は歓迎し二人は親しく話し合いました。
そこで李通は父の予言のことを話しました。劉秀は「私は受け入れられない」と断わりました。
しかも李通の父・李守は長安にいます。劉秀は「そんなことをすればあなたの父上はどうなるのか?」と聞きました。李通は「解決策があるから心配ない」と答え李通は詳細な計画を劉秀に話しました。
劉秀は李通が深い考えを持っていることに感心して、挙兵に乗り気になりました。
そこで挙兵の計画が決まり、徒弟の李軼を劉秀のもとに派遣。李通は劉縯と協力して挙兵することになりました。
挙兵の情報が漏れて一族が処刑される
李通は宛で挙兵の準備を進めました。一族の李季を長安に送り父・李守に計画を伝えました。
ところが李守が長安から出ようとしたところを怪しまれて逮捕され。計画がバレてしまいます。
李守の反乱計画を知った王莽は怒って長安にいた李守と李一族を処刑。
南陽でも李通の家族や親族が逮捕されました。
李通は逃げることに成功しましたが、李一族64人が処刑されました。
そのころ劉縯・劉秀たちは決起のために軍を集めていました。
劉兄弟と反乱を起こす
地皇4年(23年)1月。李通は劉縯や李軼たちと合流。沘水の戦いで南陽太守の甄阜や梁丘賜と戦い撃破しました。
その後、李通と劉兄弟たち他の反乱軍と合流。大きな勢力になりました。
更始元年(23年)2月。更始帝・劉玄が即位。
李通は柱国大将軍になりました。「輔漢侯」の爵位を与えられました。
更始2年(24年)2月。更始帝が長安に遷都しました。
李通は大将軍に任命されました。「西平王」の爵位を与えられています。
李通は更始帝から「符節=皇帝の権威を示す物、官軍の証明」を与えられて荊州を配下にしました。
そこで劉秀の妹の劉伯姫と結婚しました。
後漢の時代
建武1年(25年)6月。劉秀が光武帝として即位しました。
李通は光武帝に呼ばれて長安に向かいました。
李通は「皇宮衛尉」に任命されました。
建武2年(26年)。大司農に任命されました。「固始侯」の爵位を与えられました。
妻の劉伯姫には「寧平長公主」の称号が与えられました。
李通は光武帝から信頼されていました。光武帝が遠征する時は、李通が首都の防衛を担当しました。
その間にも民衆をなだめたり、城を再建したり、学校を修築したりしました。
李通は軍事能力にも優れている。
建武5年(29年)。王梁に代わって前将軍に任命されました。
翌建武6年(30年)。李通は破奸将軍侯進、捕虜将軍王覇を率いて康煕帝に従わない延岑軍を撃破しました。
蜀(成家)の公孫述は、延岑に援軍を送りました。李通は公孫述の軍を西城(漢中郡)で撃破。順陽(南陽郡)へ帰還しました。
その後、李通は病気のため引退したいと光武帝に言いましたが。光武帝は引退を認めません。大司徒・侯覇たちが現役に留まるように説得。
建武7年(31年)5月。李通は大司空(首相のようなもの)に任命されました。
でも、李通の体調はよくなりません。
李通は引退をしたいと願い出ましたが、光武帝としても李通ほどの人材を手放すのが惜しかったらしくなかなか認められません。
李通の引退が認められたのは建武12年(36年)7月でした。
その後は特進として無役のまま会議に出席する権限を与えられました。
建武18年(42年)。死去。「恭侯」の称号が贈られました。
子の李音が跡を継ぎました。
李通は皇帝の妹の夫。皇帝の義弟で、皇室とは親戚になります。
中国や朝鮮王朝では皇帝や国王の親族になるとたいていは横暴になるものですが。劉秀本人はかなり身びいきな人ですが、劉秀のまわりにいた親族にはそういう人が少ないです。李通もその一人でした。劉秀は人に恵まれていたといえそうです。
テレビドラマ
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:関智斌
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