武則天は中華王朝史上ただ一人の女帝です。
則天武后(武則天)は14歳のとき太宗 李世民の後宮に入宮。
太宗の死後、高宗の側室になり。他の妃嬪や皇后を追い落として自分が皇后になりました。
武則天を皇后にするのは高宗の意思も強く働きましたが。武則天が皇后になった後は高宗が思った以上に影響力を持ってしまいました。
高宗が病気になったこともあり、治世の終わりごろになると武則天が政治を動かすようになってきます。そして高宗が死去します。
そこまでの詳しい経緯はこちら。
そして武則天は皇太后になりました。武則天なら皇帝を裏で操ることもできます。でも武則天は自分が皇帝になろうとその準備をはじめました。
武則天はどのようにして皇帝になったのでしょうか?
今回は即位に向けて準備をはじめた武則天の皇太后時代を紹介します。
中宗・睿宗の即位
中宗が即位して55日で廃される
皇太子の李顕(中宗)が即位しました。
武后は皇太后になりました。
嗣聖元年(684年)。中宗 李顕は母に対抗するため、韋皇后の父・韋玄貞を侍中にしようとしました。ところが武則天の配下の裴炎が反対。反対に怒った中宗はつい「私は皇帝だ。韋玄貞が望むなら天下だってやる、侍中くらいいいではないか」と発言。武則天はこの発言を問題にして中宗 李顯を廃して廬陵王に格下げ。均州や房州に左遷しました。わずか55日の皇帝でした。
睿宗の時代
武皇太后は四男の李旦を皇帝(睿宗)にしました。
武皇太后はひきつづき朝廷の権力を握りました。
武皇太后は東都(洛陽)の名前を「神都」と変更。城の名前を「太初宮」に変え。旗の色を金色に変え、官服の色、省庁の名前を変えました。
9月。徐敬業は廬陵王を助ける目的で挙兵。10万の兵を集めました。
武皇太后は大将軍の李孝逸を派遣。30万の兵で反乱軍を討たせました。11月。徐敬業は敗れて自害しました。
685年(垂拱元年)。代州に突厥が襲撃。唐軍は迎え撃ちましたが敗北、5千人の死者がでました。
686年(垂拱2年)。3月。武太后は銅製の箱を作り、洛陽の宮殿の前に置き人々から情報提供を求めました。内容は「自分のキャリアを書いて就職したい人向け」「政府の失敗の指摘」「役人への不満」「天災や軍事への意見」を募集しました。
広く民間の意見を集め政治に役立てようとしました。
密告地獄の恐怖政治
武太后は皇族や重臣を監視するため。謀反人の密告制度を採用。密告者は大臣に尋問されることはなく。武太后が直接意見を聞きました。密告内容が間違いでも罰せられることはありません。密告したい人には国から馬車、馬、食料が支給されます。希望者には密告者本人が調査することもできます。無本人を捕らえれば捉えるほど手柄になり出世できました。
こうなると嘘でも謀反人をでっち上げて処分した方が得です。科挙を受けるよりも密告したほうが手っ取り早く出世できます。来俊臣(らい・しゅんしん)など何人もの酷吏が出世しました。
来俊臣、索元礼や、周興などのもともと法律に詳しい役人も密告。謀反人を取り締まりました。彼らは「酷吏」と呼ばれ恐れられました。
密告と拷問で大勢の人が死亡しました。
「酷吏」に目をつけられたら罪がなくても謀反人にされ処刑されました。皇族や臣下でも大人しくするしかありません。
酷吏を批判する狄仁傑
ところが罪のない人が大勢犠牲になっている。あまりに非道すぎる。今の取り調べの方法ではいけない。と訴えをおこした官僚がいました。狄仁傑(てき じんけつ)と彼らの仲間です。
狄仁傑たちは来俊臣たちを相手に訴えをおこしました。武太后は宮中で狄仁傑と来俊臣を争わせました。でも武則天は「国賊を大目に見るのは謀反と同じである」と来俊臣たち酷吏を支持。狄仁傑たちは地方に左遷されました。
来俊臣たちは武太后の命令で行っているのですから勝てるはずがありません。
それでも狄仁傑は自分たちの主張を曲げませんでした。その心意気に武太后も感心したのでしょうか。武太后に反抗したにしては軽い処分でした。
皇帝にむけて下準備
687年(垂拱3年)。武太后は宮中に「明堂」の建設を始めました。「明堂」は中国の古典で大昔に天子が政治を行った場所のこと。つまり武太后は自分がこの国の主になると宣言しているのです。
そして明堂の落成式には皇族が呼ばれ、その場で皇族は逮捕されて処刑される。という噂が広まりました。
武太后は唐朝を乗っ取るつもりだと唐の皇族たちは危機感をもちました。
垂拱四年(688年)5月。武太后に「聖母神皇」の称号が与えられました。
垂拱四年(688年)8月。越王 李貞が挙兵。琅邪王 李沖も挙兵しました。
武太后は丘神勣、魏崇裕を派遣。反乱軍を討たせました。さらにこの機会に邪魔な皇族を排除しようと考え、韓王 李元嘉、魯王 李霊夔、黄国公 李撰、東莞郡公 李融、常楽公主たちや親族が処刑や自害に追い込まれました。
生き残った皇族たちは厳しい監視下におかれました。
高宗の時代。長孫無忌たちが有力な皇族を潰しました。高宗が武氏を皇后にしたときに有力な重臣を処分しました。そのせいもあって、このころになると武太后に対抗できる人物がいなくなっていました。
こうした幸運にも恵まれて武太后の即位を邪魔するものは
即位へのカウントダウン
各地で皇族への粛清が行われていたころ。
武太后の甥・武承嗣が白い石にノミで「聖母臨人、永昌帝業(聖なる母は我らとともにあり、帝の偉業は永遠に栄える)」と刻んだ物を「洛河で拾ったと」言って持ってきて武太后に献上。武太后は喜んでその石を「宝珠」と名付けました。
こういう茶番は「天のお告げがあったので新しい皇帝が誕生する」というパフォーマンスです。中国では漢の時代からこういうことをしていました。中国・韓国時代劇にやたらと「予言で王が誕生」のパターンが多いのはこういう伝統が中国にあったからです。
688年(垂拱4年)。「明堂」が完成。武太后は「萬像神宮」と名付け、人々に参拝させました。明堂の北には五層の建物「天堂」がありその中に巨大な彫像が安置されていました。
690年(載初元年)。法明たち東魏國寺の僧侶が「大雲経」を書き「武太后は弥勒菩薩の化身であり、天下の主人になるべき」と主張しました。武太后は長安と洛陽、諸州に「大雲寺」を建設「大雲経」を治めるように命令しました。
そして唐は道教を国教として仏教はその次の立場でしたが。仏教が第一で、道教はその次と決めました。
武周革命 で女帝・武則天が誕生
貞観元年(690年)9月。傅遊芸という者が5万の民衆をひきつれて「武太后が皇帝に」と訴え始めます。もちろん民衆を扇動しているのは武太后の回し者か、忖度すれば何らかの利益が得られる人たちです。
民主も役人も皇族も一緒になって声を上げました。皇位の睿宗 李旦も姓を「武」に変えたい。とお願いしました。やがて大臣が「鳳凰が宮殿の上を飛んだ」「朱雀が朝堂から見えた」と報告します。
もちろん本気でそう思っている人はいません。でもそう言わないといけない雰囲気になってるのです。
恐怖政治を続けたおかげで「逆らうと命がない、嘘でも権力者を称えれば生きられる」と多くの人が思うようになっているのです。そんなことができるのかと思うかもしれませんが、今の北朝鮮や中国をみれば十分可能だとわかります。
9月9日。武太后は息子の唐の睿宗から皇帝の座を譲られ。周の皇帝になりました。こういう形の交代劇を「禅譲」といいます。
国名は「唐」から「周」に変わりました。歴史上「周」という国はいくつかあるので「武周」と呼びます。
武則天は高宗の妻で睿宗の母ですから。同じ王朝でもいいじゃないかと思うかもしれません。でも中国では姓が違うと別の王朝とされます。中国では姓は父から子に受け継がれます。母から子には受け継がれません。だから武則天が即位すると国名を変えないといけないのです。
皇帝の姓が変わって新しい王朝が誕生することを「革命」と言います。「革」とは「変わる」、「命」とは天(神)の命令です。
天(神)が「この世の支配者は李氏ではなく武氏に変える」と命令したから新しい王朝が誕生した。それが「革命」という言葉の意味です。
もちろん政権を奪った者の屁理屈です。そうして中国王朝は正当化されています。
こうして中国史上唯一の女帝・武則天が誕生するのでした。
恐怖政治で世論を強引に作ったアコギなところはありますが。でも他の王朝建国者と違い戦争をせずに王朝を作ったのは武則天のしたたかさ、賢さ。と言えるかもしれません。
次回は皇帝になった武則天が何をしたか紹介します。
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