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元載・代宗を助けた唐の悪徳政治家の素顔

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

元載(げん・さい)は8世紀の唐の政治家。

粛宗から代宗時代の宰相です。

唐の悪徳政治家の代表のように言われることの多い人物です。

安史の乱でボロボロになった朝廷の立て直しに貢献した人物のひとり。代宗の時代には宦官勢力の力が強すぎて皇帝の力が弱まってしまいます。

代宗に協力して宦官勢力の排除に貢献しました。しかし政敵を倒した後、自分が傲慢になってしまい代宗の怒りをかって処刑されてしまいます。

史実の元載(げん・さい)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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元載の史実

いつの時代の人?

生年月日:713年
没年月日:777年。

姓 :景(けい)→元(げん) 氏
名称:載(さい)
字:公輔
出身:鳳翔府岐山県(陝西省鳳翔県)

国:唐
地位:宰相
称号:

父:不明
義父:景昇(母の再婚相手)
母:不明
妻:王韞秀、薛瑤英

子供:元伯和、元仲武、元季能、娘

彼が活躍したのは玄宗~代宗時代です

日本では奈良時代になります。

 

おいたち

713年。鳳翔府岐山県(現在の中国陝西省鳳翔県)で生まれました。

元載の父親は不明。
母は不明。

父の死後。母は景昇(けい・しょう)と再婚しました。

そのため元載ははじめは「景」姓を名乗っていました。

景昇は 唐太宗の息子・曹王 李明の妃 元氏に仕え税の徴収を担当。多くの税を集めるのが得意でした。そこで曹王妃 元氏から「元」姓をもらい「元景」と名乗りました。

元載は頭がよく判断が的確で早く、知識も豊富、とくに道教に詳し異人物でした。

天宝元年(742年)。唐の玄宗皇帝は道教の教えに詳しい人材を集めるため試験を行いました。元載は試験に合格。邠州新平(陝西彬県)県尉(県の軍事警察組織のトップ)になりました。

その後、黔中監選使判官になりました。その後、大理評事、東都留守判官、大理司直を歴任などの役職を歴任しました。

天宝14年(755年)。「安史の乱」が起こりました。元載は江南に避難。

江東の採訪使 李希言から「副使」の地位を与えられました。その後祠部員外郎、洪州刺史を歴任しました。

粛宗の時代

至徳元年(756年)。粛宗が霊武で即位。
その年の10月。唐軍・ウイグル連合軍が長安・洛陽を奪還。

元載は長安に戻り度支郎中に任命されました。粛宗からは機転の効く賢い役人として信頼されていました。江淮転運使に任命され、物資の輸送を監督。御史中丞も兼任しました。

長安に戻ってからは戸部侍郎・度支使・諸道転運使になりました。

宝応元年(762年)。粛宗が重病になると、宦官の李輔国の権力が強まりました。

元載は李輔国の妻の元氏と親戚だったので、京兆尹(都知事)に任命されました。その後、同中書門下平章事、度支転運使、そして宰相になりました。

ところが宰相になった年に粛宗が崩御。李輔国が代宗を担いで即位させました。

代宗の時代

代宗の時代。李輔国の権力はますます強くなりました。元載も中書侍郎、修賢殿大学士・修国史、銀青光禄大夫などの仕事を任されます。

でも負担が増えたので度支転運使など財務関係の仕事を辞職。後任に劉晏を推薦しました。

宝応元年(762年)6月。元載は宰相を解任され天下元帥行軍司馬になりました。

李輔国の排除に参加

10月。権力を手にした李輔国の態度はますます大きくなり「あなたはただ座っていればいい。私の言うことを聞いていればいい」と言う様になりました。代宗は我慢ができず李輔国の排除を計画します。禁軍の程元振たち軍を指揮する者たち仲間にしました。元載もこの計画に参加していました。夜中に反乱を起こし李輔国を殺害しました。

その後も元載は代宗の信頼を得て、宰相の裴遵慶の辞任後、元載派の王縉(王維の弟)・杜鴻漸が宰相になりました。宦官の董秀と親しくなり、役人たちに賄賂を配り代宗が何を考えているか探りました。

魚朝恩の排除に貢献

当時、宦官の魚朝恩が禁軍の指揮権を持っていて宰相を威圧して侮辱していました。元載はあえて魚朝恩とは争わず、仲間を集めました。

大暦4年(769年)。元載は密かに代宗に陳情に行きました。代宗は魚朝恩を非常に嫌っていたので、元載に魚朝恩を排除するよう指示しました。

大暦5年(770年)。元載は仲間を集め魚朝恩殺害の計画を進めました。準備が整うと代宗に報告。

3月。代宗は魚朝恩を呼んで大規模な宴会をひらきました。元載は宴会には出席せず兵を用意して待機しました。宴会が終わると代宗は魚朝恩の罪状を読み上げ批判。それでも魚朝恩は傲慢な態度を変えません。そして元載は兵を率いて突入。魚朝恩を殺害しました。

朝廷で権力を握る

魚朝恩の排除に成功した元載はますます代宗に信頼されました。

元載は自分の手柄を自慢するようになり。宮廷の中で自分ほど優秀な者はいないと人前で話すようになりました。

その後、元載と王縉は代宗に上奏して、河中府に5万の兵を駐屯させ吐蕃(チベット)の侵攻に備えるように提案しました。元載は提案が許可されるものと思いこみ先に役人を派遣して施設を建設させ、自分の屋敷も建てさせました。それを知った代宗は許可する前に勝手なことをした元載に呆れ果てて元載の提案を許可しませんでした。

大暦6年(771年)。李少良が元載の悪行を書いた陳情書を提出。それを知った元載は李少良を死刑にしました。その後、元載を批判するものはいなくなりました。道を歩いていてもあえて声をかけず、目で合図をするだけになりました。

元載は宮廷の一番の権力者になりました。金と賄賂に貪欲で、取り巻きを育て、反体制派を排除しました。都の南北に二軒の邸宅を建てましたが、いずれも豪華なものでした。さらに都の南にある別荘は更に大きく、多くの使用人や侍女、そして多くの妓生を従えていました。

元載と宰相の王縉は親しくしていて、彼らの態度は横暴になりました。代宗は元載は長く仕えている宰相だったのでよい終わり方をして欲しいと思い、元載を呼び出して注意しました。でも元載は行動を変えませんでした。嫌気がした代宗は次第に元載を遠ざけるようになりました。

突然の死刑

大暦12十二年(777年)。元載と王縉が謀反を企んだと密告がありました。代宗は呉湊に命じて元載と王縉を逮捕させました。元載の息子や仲間たちも逮捕されました。

そして元載はその日のうちに自害するように命令され毒を飲まされました。しかし毒を飲んでもすぐには死ねません。死刑に立ち会った役人は「早く死ねばいいのに」と言い「こんなやつ、もっと屈辱を味わせるべきだ」と言い汚れた靴下を口に突っ込で窒息死させました。

その後、元載の財産は没収され。元載の屋敷から胡椒八百石が没収されました。

代宗は元載の父祖の墓を掘り起こし、棺を破壊して亡骸を捨てました。元載の屋敷はすべて破壊され、元載が建てた寺院も焼かれ、鍾乳五百両が没収されました。

死後に名誉回復

大暦14年(779年)代宗が死去。徳宗が即位しました。

興元元年(784年)。徳宗は自分を皇太子にするのに貢献した元載の名誉を回復。官職を与え、墓を作り直しました。「為荒」という諡を与え、後に「成縦」に変えました。

 

調子に乗りすぎて身を滅ぼす

 

元載は唐時代の悪人として有名です。確かに蓄財に熱心で威張っていたのでしょう。その一方で、財務に詳しく代宗時代の財政の立て直しの中心的な人物です。元載の政策は後のの徳宗時代に再評価されています。元載がいなければ、代宗は何もしていないただのお飾り皇帝でしかなかったでしょう。

元載が豪華な建物を建てたのが問題になることもありますが。安史の乱の後、大臣や将軍、宦官達は豪華な建物や寺院建てて財力を競っていました。元載だけが異常だったわけではありませんが。その中でも特に目立っていたのでしょう。

朝廷で権力をもつ宦官勢力を倒すのに功績がありましたが。彼自身も傲慢になってしまいました。あまりにも力を持ちすぎたために代宗の反感をかって謀反の口実で処刑されてしまいます。いい部分と悪い部分の両方がある人物なのですが。その後の歴史で悪い部分が誇張されて伝わってしまうことになります。

 

テレビドラマ

長安二十四時 2019年、中国 演:余皚磊
万華楼 2020年、中国 演:鄭曉寧

 

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