ホンタイジは大清国の皇帝です。
後金のハンの座をヌルハチから引き継ぎ、勢力を拡大。
国名を「金」から「大清」にかえて「皇帝(ハーン)」を名乗りました。民族名もジュシェン(女直・女真)からマンジュ(満洲)に変えました。
ホンタイジが後金のハンになったときいは他のベイレ(有力な王族)とともに統治していましたが、ホンタイジは王族を粛清してンの権限を拡大。皇帝を中心にした国作りを目指しました。
遼東・遼西を清の領土にして、南モンゴルを支配下におき朝鮮を従属国にしました。清は満洲人・漢人・モンゴル人が暮らす多民族国家になり国の仕組みも変わりました。後の大清帝国の基礎はホンタイジが作ったといってもいいくらいです。
ホンタイジとはどのような人物だったのか紹介します。
モンゴル皇帝の玉璽を入手
1634年(天聡8年)。ホンタイジはモンゴルの緒部と同盟してモンゴル・チャハル部を攻めました。モンゴル帝国皇帝リンダン・ハーンはチベット遠征に出ていませんでした。
ホンタイジはモンゴルの本拠地フフホトを占領しました。
リンダン・ハーンは遠征中に病死。
1635年(天聡9年)。リンダン・ハーンの遺児エジェイが生きていると聞いたホンタイジはチャハル部の残党を制圧させました。
14歳のエジェイは無抵抗で生母スタイやリンダン・ハーンの諸妃とともに投降。ホンタイジはエジェイの持つ大元皇帝の「伝国玉璽」を入手しました。
ここにモンゴル帝国(大元、北元)は滅亡しました。
ホンタイジの権力強化
その後。モンゴルの諸妃の扱いをめぐってホンタイジと兄ダイシャン、姉マングジが対立。ホンタイジはそれを理由に二人を罰しました。マングジの夫ソノム。マングジの弟デゲレイも罰しました。この事件で四大ベイレ筆頭ダイシャンが失脚。
1635年。デゲレイが病死。
四大ベイレのナンバー3マングルタイは1632年にすでに死亡。
四大ベイレのナンバー2アミンは1630年の明への攻撃の際、占領した街を放棄したという理由で処分、朝鮮を攻めたときに独立しようとしたことが今ごろ問題にされて幽閉されました。
四大ベイレのなかでホンタイジだけが政治の中枢に残りました。自分に対抗できるものがいなくなると、ホンタイジはマングルタイがかつて謀反を企てていたという理由で家宅捜索。マングルタイの家から「金国汗印」がでてきました。これを謀反の証拠だとしてマングルタイの一族を逮捕。
マングルタイの一族が持っていた正藍旗が解体され、ホンタイジの正黄旗、鑲黄旗に吸収されました。そして新しい正藍旗が再編成され、ホンタイジの長男ホーゲに新しい正藍旗を任せました。
ホンタイジ家は八旗のうち三旗を所有。ベイレの中で最大の力を持ちました。ホンタイジに対抗できる勢力はもういません。
皇帝(ハーン)の即位へむけた準備
遊牧民社会ではハーン(可汗:皇帝に相当)になれるのはチンギス・ハーンの男系子孫のみ。ホンタイジはチンギス・ハーンの子孫ではありません。そこでモンゴル皇帝玉璽の入手をハーン即位の正当な理由にしました。
年内にホンタイジは民族名をジュシェン(女直、女真)からマンジュ(満洲)に変更すると発表しました。
大清国皇帝になる
1636年(天聡10年)。ホンタイジは満洲人、漢人、モンゴル人たちの支持を得て「皇帝(ハーン)」に即位すると宣言。元号を「崇徳」に改元。そして国名をアイシン・グルン(金国)からダイチン・グルン(大清国)に変更しました。
ホンタイジは大清帝国 皇帝になりました。
大清(ダイチン)の意味
清は火徳の明に対抗して氵(サンズイ=水徳)の清を国名にしたという意見があります。でももっと大きな意味があります。
大清は満洲語では「ダイチン」といいます。「ダイチン」の発音はモンゴル語で「統率者、上にたつ者、勇者」を意味します。
ホンタイジはモンゴル語ができてモンゴルの文化に馴染んでいました。モンゴル・満洲人にとっては「ダイチングルン」は「勇ましい国」「統率する国」を意味する言葉を国名にしたのです。
丙子の役(第二次朝鮮侵攻)
戦闘になるまでの経緯
崇徳帝ホンタイジは国交のある国・部族に使者を送り皇帝になると伝えました。ところが朝鮮は国書の受け取りを拒否、使者のイングルダイを殺そうとしました。重臣たちは朝鮮攻撃を進言しましたが、ホンタイジは交渉の継続を命じました。
崇徳元年4月11日(1636年)。各国の使者を招いてホンタイジの皇帝即位式が行われました。朝鮮からも使者が来ましたが、朝鮮の使者は皇帝に拝礼しようとしません。
重臣たちは朝鮮の使者を処刑すべきと主張しましたが、ホンタイジは「子弟を清に人質として送るように」と書いた国書を朝鮮の使者に渡して帰しました。
朝鮮仁祖はホンタイジの国書に直接回答せず、6月に「同盟は破れた、その責任は清にある」と書いて送ってきました。
ホンタイジは朝鮮攻めを決定。でも軍は明と戦っていた(長城を超えて略奪しに出ていた)のですぐには派兵できませんでした。
10月。朝鮮の使者が「兄弟国を維持するように」という朝鮮仁祖の国書を持ってきましたがホンタイジは拒否。朝鮮仁祖に「11月25日までに人質を送って来なければ朝鮮を攻撃する」と最後通告しました。
11月19日。ホンタイジは臣下を集め朝鮮攻撃を話し合いました。
崇徳元年11月25日。ホンタイジは天を祭る儀式を行いその場で朝鮮攻めを発表。
戦いの始まりと終わり
12月2日。ホンタイジは軍を率いて出発しました。
12月8日。清軍は鴨綠江を渡りました。
朝鮮仁祖は家族を江華島に送ったあと。自分も島に渡ろうとしましたが風が強く海を渡れません。清軍が近づいていたので南漢山城に立てこもりました。
12月16日。ホンタイジは先発隊に南漢山城を包囲させました。何度か戦闘も行われました。
12月29日。ホンタイジ率いる主力部隊が南漢山城に到着。
和平交渉が行われましたが朝鮮仁祖は降伏を拒否。清の交渉団は朝鮮王族が立て籠もる江華島を攻撃すると脅しました。でも朝鮮はハッタリだと思っていました。
崇徳2年1月22日(1637年)。ドルゴン率いる別動隊が江華島に上陸。赤衣砲(ポルトガル式の大砲)を装備したドルゴン軍に江華島城を守る朝鮮軍は刃が立たず降伏しました。
その間、南漢山城でも戦闘が行われ。南漢山城にも赤衣砲で砲撃を開始。
1月25日。ドルゴンは捕虜を連れて江華島を離れました。
江華島が陥落して王族が捕虜になったことは南漢山城にも伝わり。朝鮮仁祖は降伏を決定しました。
1月30日。太宗ホンタイジは三田渡で朝鮮仁宗と会いました。そして朝鮮仁宗はホンタイジの足元にひれ伏して三跪九叩之礼(3回ひざまづいて9回頭を地面につける)しました。
清と朝鮮の調印式が行われました。この条約には11の条文がありますが主なものを紹介すると。
朝鮮は明との宗藩関係(宗主国と従属国の関係)を断つこと。
明の元号を使わない。大清に従うこと。
世子と王子を人質にとして清に送ること。
清が明を攻撃するときは朝鮮も協力しなければいけない。
朝鮮人捕虜が鴨緑江を渡って逃亡した場合、朝鮮は清に捕虜を返さなければいけない。
朝鮮と日本との貿易は認める。清が日本に連絡するときは朝鮮が協力しなければいけない。
などの内容が決められていました。
こうして朝鮮は明の従属国を離れ清の従属国になり。清は背後の朝鮮を気にすることなく明との戦いに専念できるようになりました。
明との戦い
朝鮮と戦っている間。崇徳帝ホンタイジは弟のアジゲに命じて明を攻撃させました。アジゲ軍は北京近くまで攻め込み略奪して帰ってきました。明から18万の捕虜を獲得したといいます。この時期の明との戦いは略奪目的でした。
崇徳3年(1638年)。ホンタイジは山海関を攻撃。
その間にドルゴンが山東まで進出して攻撃をかけました。明の皇族 朱由枢を捕虜にして帰ってきました。明にも一部に勇敢に抵抗する武将はいましたが、組織的な軍事活動ができなくなっていました。この作戦で清はいくつもの街を攻め落として住民を連行。略奪を行いました。
しかし長距離の遠征は清にもリスクはあります。遠征中に大将軍のヨトが病死しました。ヨトはホンタイジの兄・ダイシャンの息子。ホンタイジのハン即位に賛成してダイシャンを説得したひとりでした。
松錦の戦い
満洲地方から北京のある中原まで行くには山海関を通らないといけません。山海関は万里の長城の端にあり難攻不落の要塞でした。しかも錦州・松山・杏山・塔山の4つの城が山海関を守っています。一つ一つが強固な城でした。
崇徳4年(1639年)。50歳を過ぎたホンタイジは病気がちになっていました。ホンタイジはジルガランに錦州攻略を命令。錦州城と他の城の間に柵を作り容易には援軍がたどり着けないようにして錦州城を包囲させました。
すると明軍は松山城の周辺に兵を集結させました。その数は13万の大軍でした。
首都・瀋陽にいたホンタイジはその報告を聞くと急遽、松山城の明軍を攻撃するために出撃しました。途中ひどい鼻血が出て部下が休むように言いましたがホンタイジは「神のような速さで行軍すれば勝てるのだ。朕は敵将が逃げ隠れするのを恐れている。もし敵が逃げなければ討つのはた易いのだ」と言って忠告をきかずに軍を急がせました。結局ホンタイジは6日間昼夜馬を走らせ戦場に到着しました。
それまで清(後金)は大砲で武装した頑丈な城に立てこもった明軍に苦戦していました。ところが今回は明は野戦を挑もうとしているのです。明は有力な武将を集め大軍を用意すれば勝てると思ったのかもしれません。でもホンタイジは籠城された方が困るのです。野戦に持ち込めば勝てると思っていました。
実は総督の洪承疇(こう・しょうちゅう)は十分に食料を用意して籠城しようと考えていました。でも明の朝廷は長期戦になると戦費が増えるので短期決戦するように命令していました。
その結果。松山城の戦いは清軍が勝利しました。錦州・杏山・塔山と他の4つの城も落城。山海関を守る城はなくなりました。
破れた明の総督・洪承疇は清に降伏しました。ホンタイジは洪承疇の採用をためらいましたが、先に寝返っていた漢人の武将が彼は信頼できるというので洪承疇を採用しました。
崇徳6年9月。ホンタイジは戦場にいましたが、寵愛していた宸妃ハルジョルが倒れたとの報告を聞いて急遽都に戻りました。しかしホンタイジが到着する前にハルジョルは死去しました。ホンタイジは非常に悲しんだと言います。
総督の洪承疇が清に寝返ったという知らせは明の朝廷だけでなく民衆にも衝撃を与えました。総督のような大物が寝返ってしまうのは何かあったに違いないと世間では様々な憶測が飛び交いました。その後、明から寝返る者が増えます。
清では寝返った漢人を再編成して漢軍八旗を創設しました。
明を弱らせる
清の国内ではこのまま一気に山海関を攻めて北京を攻め落とそうという意見もありましたが。ホンタイジは慎重でした。
崇徳7年(1642年)。アバタイに命じて万里の長城を超えて明に攻め込むよう命令。今回も略奪目的の侵入です。
このころ明の国内では李自成たちの反乱がおきていました。
アバタイには清の目的は明の征伐なので反乱軍との戦いは避けるように命令しました。アバタイは雁門関を攻撃、朱衣珮たち明の皇族や役人数千人を虐殺しました。
崇徳8年(1643年)。アバタイが大勢の捕虜とともに帰還しました。
ホンタイジの最期
崇徳8年8月9日(1643年9月21日)。崇徳帝ホンタイジが死去。享年52。
死因は不明。寝込んでいたわけではなく急死でした。ここ数年病勝ちになることがあり、松錦の戦いでは大量の鼻血を出していました。高血圧や動脈硬化で動脈が破れて鼻血が出ることがあるといいます。死因は心臓発作か脳卒中かもしれません。
大元の後継者
崇徳帝ホンタイジは満洲地方や長城から外の明の領地をすべて清の領土にして南モンゴルもほぼ支配下におきました。朝鮮など周辺部族も従属させました。
その一方で明との全面戦争には慎重でした。明に和睦を求めることもありました。ホンタイジが最初に望んでいたのは交易の再会で中原の支配ではなかったのです。
ホンタイジが朝鮮王にあてた手紙でも「明を倒して中原の王になることはできるかもしれないが、そんなことをしたら子孫が滅んでしまう」とも書かれています。ホンタイジはかつての金(完顔氏の国)のようになるのは避けたかったのかもしれません。
ホンタイジ個人はモンゴル帝国(大元)の後継者・遊牧民社会の王(カーン)になりたかったので。明を倒して中華の支配者になるつもりはなかったのではないか。という研究者もいます。ホンタイジがどこまで明の征服を本気で考えていたのかはわかりません。
でもホンタイジが思った以上に明の弱体化は進んでいました。ホンタイジの死後わずか2年で明が反乱軍によって滅亡してしまいます。
ドラマ
宮廷の泪・山河の恋 2012年、中国 演:劉愷威(ハウィック・ラウ)
皇后の記 2015年、中国 演:聶遠(ニエ・ユエン)
華政 2015年、韓国MBC 演:チョン・ソンウン(鄭成雲)
孤高の皇妃 2017年、中国 演:林峯(レイモンド・ラム)
南漢山城 2017年韓国tvN 演:キム・ロウレ(金範来)
王家の愛 2018年、中国 演:富大龍(フー・ダーロン)
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