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興宣大院君 李昰応(イハウン) 権力への執着と閔氏への敵意

朝鮮王族 3 李氏朝鮮の王子

興宣大院君(フンソンテウォングン)李昰応(イ・ハウン)は李氏朝鮮の高宗の父。

興宣君 李昰応は仁祖の子孫。王族とはいえ、力のない没落した王族でした。

しかし自分の息子を王にするため、人脈作りに励み。ついに自分の息子を王にすることに成功しました。

興宣君 李昰応は王の父・大院君になりました。

でも高宗はまだ幼いです。そこで垂簾聴政をする趙大妃の補佐という形で政治に参加。実際には趙大妃が興宣大院君に政治の全権を委任しています。

こうして興宣大院君は朝廷の中で大きな権力を得ました。

大院君は権力を独占する両班の力を弱め、王の地位を高め、勢道政治のもとで乱れた政治を治そうとしました。しかし強硬なやり方は周囲との対立を生み出していき。朝鮮の歴史にも大きな影響を与えます。

高宗即位後の興宣大院君 李昰応(イ・ハウン)の後半生を紹介します。

 

前半生はこちらを御覧ください。

・興宣君 李昰応(イ・ハウン)没落王族はなぜ国王の父になれた?

 

 

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興宣大院君の改革

勢道政治

興宣大院君がまず行なったのは勢道家から官職を奪うこと。老論派の独裁を終わらせ各派閥から均等に人材を採用。王家の権限を強化。庶子が科挙を受けられるようにしたり議政府を復活させました。

書院の整理

朝鮮には800~1000ほどの書院がありました。書院とは儒学を教える私塾です。両班が弟子を育て派閥に人材を送り込む場になっていました。

書院は土地や奴婢を所有。領民に不当に金を要求、出さない場合は勝手に民に制裁を加えるなど横暴がひどくヤクザのような利権団体になっていました。国の税収にも影響が出るほどでした。興宣大院君は書院の数を大幅に削減。47団体を残して後は廃止させ庶民の税負担を減らそうとしました。

庶民からの支持は得られましたが両班たちは反対しました。大院君は抗議する儒者を武力で抑え込みました。そのためそれまで大院君を支持していた両班も閔氏派と手を組むようになります。

キリスト教の弾圧(丙寅教獄)

1866年。ロシアに対抗するため興宣大院君はキリスト教徒の重臣たちの意見を聞いてフランスと同盟しようとしました。ところが金炳学たち重臣が猛反対。

結局、興宣大院君は鎖国(朝鮮では海禁といいます)を続けキリスト教徒を弾圧。8000~1万人近くを処刑しました。9人のフランス人宣教師を処刑しました。

景福宮の再建

1864年。王室の権威を高めるため景福宮の再建を進めました。

景福宮は文禄の役のとき消失していました。日本軍が攻めてきた時、王が宮殿を捨てて逃亡。朝鮮の民衆は奴婢の台帳を燃やすため宮殿を略奪・焼き討ちしたのです。その後も景福宮は失われたまま。昌徳宮を使っていました。

1865年から工事を開始。一度は火災で消失。重臣たちの反対にもかかわらず工事は続行され1868年に再建しました。

ただし再建に必要な巨額の費用は当時の朝鮮王朝には大きな負担となり。増税が行われ強制的な徴収が行われました。税の徴収のため役人の間で不正が横行。民衆への負担が増えました。

丙寅洋擾

丙寅教獄で弾圧を逃れたフランス人宣教師が天津のフランス租界に逃れフランス軍に助けを求めました。ベルネ代理公使はフランス政府に無断で派兵を決定。

1866年10月16日。ローズ少将以下800人のフランス海軍が江華島を襲撃。フランス兵170人が上陸しました。しかし島を守る韓聖根、梁憲洙たちが抵抗。江華島に増援が送られ最終的に朝鮮軍は1万人になりました。フランス軍は戦闘続けるのは無理と判断して撤退しました。

興宣大院君は勝利宣言。フランス軍の撃退で興宣大院君の名声は大いに上がりました。

辛未洋擾

1866年。アメリカの帆船ジェネラル・シャーマン号が開港を要求。朝鮮側が食糧・水・薪を与えて帰らせようとしましたが、ジェネラル・シャーマン号側が拒否。朝鮮側と戦闘になり、ジェネラル・シャーマン号が沈没しました。

それを知った清国駐在のアメリカ公使は朝鮮に賠償と開港を要求。

1871年6月10日。江華島にアメリカ兵1200人を派兵。江華島に上陸しました。戦闘そのものはアメリカ軍が勝利したものの。興宣大院君はアメリカの要求を拒否。江華島に援軍を送りました。援軍が来るのを知ったアメリカ軍は撤退しました。

興宣大院君は自信を深めさらに鎖国を強めます。

 

明成王后との対立

趙大妃(神貞王后)は一族の娘を高宗の妃にしようとしましたが。興宣大院君は拒否。勢道政治の復活を恐れ有力な両班出身の王妃は望みませんでした。興宣大院君の妻・驪興府大夫人閔氏が一族の娘・閔玆暎(ミン・ジャヨン)を強く勧めるので、閔玆暎を高宗の妃に決定。

1866年。閔玆暎は高宗の妃(明成王后)になりました。最初は大人しく興宣大院君に従っていましたが。高宗は明成王后に無関心で李尚宮を寵愛。興宣大院君も明成王后には厳しく接していました。

高宗の側室・李尚宮が長男・完和君を出産すると初孫の誕生に喜んだ興宣大院君は完和君を後継者にしようと考えます。

もちろん明成王后は不満です。

明成王后は興宣大院君を激しく憎むようになり、二人の不仲はやがて一族を巻き込んだ政治的対立に発展。二人は互いに殺し合うほど激しく対立するようになります。

失脚

興宣大院君は両班の特権を奪い、人事権を独占。王を中心にした国をつくろうとしました。強引なやり方に両班が反発します。儒学者は「独裁」だと批判しました。

1873年。崔益鉉が大院君を批判する上訴をすると。明成王后と趙大妃が高宗を問い詰め。高宗を中心に趙氏派や両班たちが興宣大院君を批判。興宣大院君は引退して高宗の親政が始まりました。

しかし政治的な力は明成王后とその一族が独占。勢道政治が復活しました。

 

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復権に向けた活動

失脚した大院君は復権に向けて動き出しました。

大院君は長男・完興君 李載冕の息子で性格的にも自分によく似ている永宣君を次の王にしようと画策。

閔氏派は汚職がひどく明成王后も浪費癖がありました。大院君が回復した王室の財政を赤字に転落させました。さらに閔氏派は開国しようとしたため、開国に反対する両班が再び大院君を支持。

開国には賛成でも閔氏派の独裁には反対する金玉均たちは開化派となり対立。

朝鮮は大まかに分けると大院君派、閔氏派、開化派の三つ巴の争いになります。

1874年。閔氏一族の最高権力者・閔升鎬とその一族が爆弾テロで死亡。大院君のしわざと噂されましたが証拠不十分でウヤムヤになりました。報復として明成王后は大院君の兄・興寅君の家を襲撃させました。

壬午事変・二度目の政権

1882年。閔氏派に反対する勢力と大院君派が協力して反乱を起こしました。反乱軍は王宮に突入。閔氏派の重臣が殺害され。城内は死体が散乱。乙未事変よりもひどい有様だったといいます。

大院君の側近・許煜は明成王后を暗殺しようとしましたが失敗。明成王后は逃亡しました。

大院君は再び権力の座につくと明成王后の死亡を発表しました。

清に連行される

ところが逃げ延びた明成王后は朝鮮に駐屯する清軍の袁世凱に助けを求めました。

清軍は朝鮮に軍事介入。反閔氏派は鎮圧されました。

清の馬建忠に呼び出された大院君は身柄を拘束され清の天津に連行。幽閉されました。

清で幽閉中も完興君とは連絡をとっていました。

 

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3度目の政権復帰への動き

清から朝鮮に帰国

1885年。閔氏政権はロシアや日本に接近。

清政府と袁世凱はロシアを牽制するため大院君を帰国させることにしました。

8月。大院君は朝鮮に帰国。久しぶりに雲峴宮に戻ってきました。

1887年。大院君は袁世凱と会合して高宗を廃して完興君を王にしようと持ちかけます。でも袁世凱は反対。

1890年。大院君は東学党の幹部・全琫準を保護。食客としてもてなして東学党とのつながりを作ります。

1892年。雲峴宮に爆弾が仕掛けられているのが発見されました。大院君は閔氏派の犯行と考え批判。大院君は暗殺を恐れるようになり。国王が親衛隊を派遣して雲峴宮を守ることになりました。

東学党の反乱

1893年。一度、大院君のもとを離れていた全琫準が戻ってきました。決起に向けた打ち合わせをしたと思われます。全琫準は地方を回っている間、興宣大院君の支持を得たと触れ回り賛同者を集めてました。

東学軍の一部が漢城にやってきて朝廷に汚職官吏の追放と改革を上訴。さらに大院君は東学軍に「永宣君の即位」を要求させますが閔氏政権は拒否。

大院君は全琫準の仲介で東学軍の穏健派と会談。自分を摂政にすることを約束させました。

1894年。東学軍が決起しました。

清とロシアを味方にしている閔氏政権に対抗するため、大院君は東学軍だけでなく日本も味方にしようと考えました。日本公使の大鳥圭介と会って明成王后の廃妃を訴えますが大鳥圭介は拒否しました。

大院君は永宣君を別入直待令医官に任命させ。高宗と明成王后を監視させました。

やがて清と日本が朝鮮に軍を派遣して東学軍の反乱は収束しました。

日本と繋がった開化派により大院君が摂政に立てらることになりました。

再び政権奪取

1894年7月。大院君は日本軍に護衛されて王宮に入り、閔氏派が排除され。開化派の政権が誕生しました。

大院君と開化派は改革を進めようとしました(甲午改革)。大院君と日本の支援を受けた開化派は意見があわず対立。大院君はわずか1ヶ月で摂政を退任させられます。

日清戦争と東学との共謀

大院君は高宗を廃して永宣君を即位させようと画策。東学軍を動かして日本軍を追い払おうとします。

1894年7月25日。朝鮮国内にいる日本軍と清軍が交戦。日清戦争が始まりました。

10月9日。東学軍が決起。一時的に日本軍を退かせますが。すぐに日本軍の支援を受けた朝鮮軍や、両班や土豪が組織した民堡(民兵組織)の猛攻に会い東学軍は壊滅しました。

大院君は開化派を排除して高宗を廃位させようとしましたが、すぐに東学軍が鎮圧されたため実現できませんでした。戦後、日本軍は大院君の引退を要求しますが拒否。井上馨は金弘集を首相にして内閣を設立しました。金弘集政権のもとで改革が行われます(甲午改革)。

1895年。政権幹部の金鶴羽が殺害されました。

1895年5月。永宣君が犯人にされて死刑が宣告されました。大院君は井上馨にかけあって助命を懇願。永宣君は流刑になりました。

大院君は雲峴宮に軟禁され日本軍の監視がつきました。

明成王后の殺害(乙未事変)

1895年7月6日。閔氏派はロシアと組んでクーデターを起こし、開化派から政権を奪取。

閔氏派への恨みが忘れられない大院君は開化派と接触。金弘集・兪吉濬らを味方に引き込みます。そして明成王后暗殺と閔氏派排除を画策します。

新しく赴任した日本公使の三浦梧楼は大院君に協力的。大院君はロシアに驚異を持っている日本も利用できると考え。日本公使館に密使を送るようになります。三浦梧楼も朝鮮からロシアの影響を取り除くため閔氏政権の排除を考えました。

10月6日。閔氏政権は訓練隊を解散。ロシア主導で閔氏のための軍隊を作りました。怒った訓練隊の幹部たちは大院君を担いで反乱を起こそうと計画。

こうして大院君、開化派、三浦梧楼、元訓練隊の思惑が一致。明成王后を暗殺して閔氏政権打倒を決定します。

1895年10月8日。日本公使館警備隊、朝鮮親衛隊、元訓練隊などが景福宮に突入。閔氏を殺害しました。

三浦梧楼は大院君を呼び出しましたが大院君はなかなか出ていかず、そうしている間に夜が明けてしまいます。

明成王后殺害後、大院君は日本軍に護衛されて王宮入りしました。

大院君は明成王后を庶民に格下げすると発表。永宣君を流刑地から逃しました。

再び金弘集が首相になり。朝鮮政府は明成王后の殺害は大院君に責任があると発表。明成王后を王妃に戻して大院君を雲峴宮に軟禁しました。

 

興宣大院君の最期

大院君は宿敵の閔氏がいなくなった後はすっかり政治意欲をなくし隠居生活をおくりました。

1896年。高宗が王宮を脱出してロシア公使館に入りました(俄館播遷)。

その後。大院君は揚州に引き込みました。

1898年1月。驪興府大夫人閔氏が死去。大院君はさらに気力を失いました。
2月22日。大院君は雲峴宮で死去。享年79(数え年)。

高宗は大院君の死には興味を示さず葬儀にも出席しませんでした。

 

テレビドラマ

明成皇后 2001年、KBS 演:ユ・ドングン
Dr. JIN 2012年、MBC 演:イ・ボムス
朝鮮ガンマン 2014年、KBS 演:ユン・スンウォン
ミスター・サンシャイン 2018年、TvN 演:チェ・ジョンウォン
緑豆の花 2019年、SBS 演:チョン・グックァン
風と雲と雨 2020年、TV朝鮮 演:チョン・グァンリョル

 

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