全 琫準 平等な世の中を夢見た東学軍のリーダー

6 李氏朝鮮の人々

全 琫準(チョン・ポンジュン)は李氏朝鮮時代末期の人物。

朝鮮東学教の南接派の代表者で。東学党が中心になって引き起こした東学党の乱では反乱軍を率いて戦った中心的な人物です。

平等な世の中を目指して農民や賤民たちのために戦い、朝鮮史でも英雄的な人物と評価されています。

その一方で興宣大院君との繋がりも強く、全琫準の率いる部隊は興宣大院君の敵と戦うための組織のようになってしまいます。

史実の全琫準はどんな人物だったのか紹介します。

 

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全 琫準(チョン・ポンジュン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1854年 
没年月日:1895年4月24日

名前:全 琫準(チョン・ポンジュン、ぜん・ほうじゅん)
本貫:天安全氏

父:全彰赫(チョン・スンロク)
母:金氏

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の哲宗~高宗時代の人物です。

日本では明治時代の人になります。

哲宗の時代

1854年。全羅北道高敞郡德井面堂村で生まれました。

高麗の建国に貢献した開国功臣・全楽の子孫です。全琫準の時代には没落した両班になっていました。

全琫準の父親・全彰赫は私塾の先生。両班と言っても家は貧しく自分で田畑を耕していました。

教育熱心な親のおかげで全琫準は5歳で私塾に入り、儒教の経典・四書五経を学びました。

困窮する民衆たち

全琫準の生まれた時代。朝廷では一部の両班が贅沢して民の生活をまったく考えない政治を行い。役人は官職についたり出世するために多額の賄賂が必要で賄賂の財源にするため民衆から搾取したり、横領して私服を肥やしていました。

朝鮮の朝廷が西洋や日本に言われるがままに開国した結果。外国資本が朝鮮国内に入って来ると、儒教社会で地位が低く資本力が小さかった朝鮮の商人は太刀打ちできません。日本と清は米の争奪戦を行い。朝鮮の商人は外国資本との競争に敗れて食料や商品は国外に流出。物価は高騰。でも朝鮮の朝廷はまったく何もできず。貿易の利益も閔氏など権力を握る一部の一族が独り占め。

人々の生活は非常に苦しくなり。哲宗時代の1860年ごろから各地で民乱(民衆の反乱)が起きました。

東学教の信者になる

東学とは

1860年ごろ。慶州の崔 済愚(チェ・ジェウ)は「東学」という宗教を創設。崔済愚は西洋から来たカトリックに反感を持ち、東洋の宗教(道教・儒教・仏教)の教えをまとめました。東学信徒の集まりを東学党と言います。

東学は教えが簡単だったので庶民の間に急激に広まりました。

開祖の崔済愚は朝廷から危険人物にされて1864年に処刑されましたが。東学の幹部たちはその後も布教を続けました。

高宗の時代

全琫準は私塾の教師をする一方で商売もしていました。

全琫準が東学に入信

1890年ごろ。全琫準は東学教に入信。東学の教えにのめり込みました。全琫準は教団内で頭角をあらわし。東学教の古阜、泰仁で活動しました。

このころ全琫準は興宣大院君(高宗の父)を訪問。しばらく滞在した後、いったん興宣大院君のもとを離れて仲間を集めました。興宣大院君は組織的な活動ができる東学に目をつけ利用できないか考えていたようです。

1893年2月にまた興宣大院君を訪問。決起する予定だと知らせて東学への支援を求めました。当時、朝廷内では興宣大院君派と閔氏派が対立。興宣大院君は東学を利用したかったのです。

この年。全琫準の父・全彰赫が汚職役人に虐待をうけて体が弱り後日死亡。この経験が後の活動に影響したのではないかともいわれます。

東学が北派と南派に分裂する

1893年3月。東学教の2代目教主・崔時亨は2万の信者を集め、罪人にされていた初代教祖・崔済愚の名誉回復を訴える決起集会を開きました。その場で崔時亨は「腐敗した役人に懲罰を与える」「反日本、西洋を排除」というスローガンを発表。「東学教取締令」の撤回を訴えました。

全琫準もこの活動に参加しました。

その知らせが朝廷に届くと閔氏派は戸曹参判の魚允中を派遣しました。

崔時亨と魚允中が交渉した結果。崔時亨は朝廷と妥協。信徒に解散して故郷に帰るように指示を出しました。でも東学教徒は帰りません。

すると朝廷は洪啓薫が率いる600人の軍を派遣、鎮圧させました。崔時亨は改めて信徒たちに解散を命じて自分も青山郡に避難しました。

でも全琫準たちは徹底抗戦を主張しました。

東学は朝廷に妥協する北派と武力で抵抗する南派に分裂します。北派の代表が崔時亨・孫秉熙。南派の代表が全琫準です。

崔時亨は興宣大院君と関係を続ける全琫準が不安でした。東学が興宣大院君に利用されるのではないかと心配していたのです。

でも全琫準は興宣大院君は東学を援助してくれると思っていました。

東学の乱

1894年1月10日。全羅北道古阜郡で全琫準たちは数千人の農民を率いて民乱(民の反乱、日本の一揆みたいなもの)を起こしました。

東学党が中心になって起こした民乱なので「東学(党)の乱」と言います。韓国では「東学農民革命」や「東学農民運動」。社会主義国の北朝鮮では「甲午農民戦争」といいます。

全琫準は体が小さかった(152センチ)ので「緑豆将軍」とあだ名されました。

全琫準たちは古阜の役所を占領。「東学は人はみな平等であることを世の中に知らしめ、欲に目の眩む汚職官吏を成敗。新しい世の中を作る」と宣言しました。

全琫準たちの東学軍に周辺地域の農民も合流。全琫準は平等をうたっていたので賤民も参加しました。

黄土峴の戦いでは全羅道観察使・金文鉉の軍を撃破。その後、朝廷が派遣した両湖招討使の洪啓薫の軍も破り、全羅道を占領。忠清道まで進軍しました。

東学軍がそれまでの民乱と違うのは全琫準の指揮能力が高かったのもありますが。東学が各地に作ったネットワークを活用して各地の組織をつなぎ大規模な動員ができたこと。庶民にわかりやすい目標を掲げて戦う意味をはっきりさせたことも特徴です。

興宣大院君との取引

興宣大院君は東学と交渉し閔氏派を排除して永宣君を王、自分を摂政にさせるように取引します。

全琫準は官軍を率いる洪啓薫と交渉して「興宣大院君を政権に復帰させるように」訴えました。でも洪啓薫は拒否しました。

一方、自力で反乱軍を鎮圧できない閔氏政権は清軍に出兵を求めました。朝鮮の朝廷は自国の国民を外国の軍を使って鎮圧させることにしたのです。

清軍は朝鮮の出兵要求を受け入れました。清は天津条約にもとづいて日本にも出兵を知らせました。清と日本。どちらかが朝鮮半島で軍を動かすときはもう一方の国も軍を派遣してよい事になっていたからです。

一方、全琫準たちにも問題が起きていました。農繁期がやってきて反乱に参加している農民たちが自分の土地に帰って行くからです。

全琫準はこのままでは戦いを続けられないと判断。全琫準は和平に応じます。

このとき「全州和約」が結ばれたとされています。全琫準が出した和平案は残っていますが。当時の記録には「全州和約」を結んだという記録はありません。朝廷がどこまで全琫準の和平案を認めたのかはわかりません。

いずれにしろ。東学軍の活動は収まりました。

朝鮮の朝廷は全琫準が要求した和平案を実行する気はありません。全琫準の思い通りにはならなかったのです。

その後、全琫準は地方に戻り仲間とともに組織の立て直しを行いました。

 

興宣大院君の要請を受けて再び挙兵

やがて開化派と興宣大院君は日本軍を味方にして閔氏派を排除。朝鮮の朝廷では日本軍の支援を受けた金弘集や開化派と興宣大院君が中心になって朝鮮の改革を進めていました(甲午改革)。

ところが興宣大院君は開化派や日本と対立して政権から外されます。開化派の行う改革の内容は身分制度の廃止や清を宗主国として認めないなどです。興宣大院君や特権を奪われる両班たちは反対しました。

興宣大院君(閔氏も)は敵味方をころころ入れ替えるので人間関係がわかりにくいです。この辺が朝鮮末期の歴史をわかりにくくする原因の一つかもしれません。ドラマみたいに単純ではありません。

日清戦争の始まり

清が宗主権をもつ朝鮮の内政に日本が介入したので清は反発。朝鮮に出兵した日本軍と清軍は武力衝突します。

1894年7月25日。日清戦争が始まりました。

政権から外されていた興宣大院君は高宗を廃して永宣君を即位させようと計画。日本と清が戦っている間に東学軍に決起させ日本軍とその援助を受けた開化派を排除しようとします。

興宣大院君から指示をうけた全琫準は挙兵を決めます。ところが東学幹部の崔時亨・孫秉熙たち穏健派は全琫準に不信感をもってます。挙兵には乗り気ではありません。全琫準が東学幹部を説得している間も日本軍と清軍の戦いは続いていました。

全琫準はようやく東学幹部を説得して再び挙兵。10月25日。全琫準たちは忠清道論山を占領しました。ところがその頃には清軍の負けはほぼ決定してました。

全琫準たちは忠清道の首府を占領しようとしますが。全琫準たちの兵は装備も訓練も十分ではなく、最新装備の日本軍には歯が立ちません。東学軍は日本軍と戦って敗北。論山に撤退しました。

戦いに敗れて捕まる

全琫準は論山での戦いにも敗れて敗走中に日本軍に捕らえられ。漢城(ソウル)に送られました。

当時、全琫準の反乱は興宣大院君が黒幕ではないかと疑惑があり。全琫準は拷問をうけました。でも全琫準は興宣大院君との関係は否定し続けました。役人が興宣大院君を批判するとそれに反論。最後まで興宣大院君への忠義を貫きました。

日本公使の井上馨は全琫準の人柄に共鳴して死刑はしないように言いましたが。1895年4月。井上馨が帰国している間に義禁府で斬首になりました。享年43。

 

平等と勤王の間でゆれた人生

全琫準は平等な世の中、役人の不正のない世の中を目指しました。全琫準は「輔國安民(国を助けて民を安らかにする)」「忠君」をかかげて活動。王室への忠誠心をもつ勤王主義者でした。

朝鮮王朝を倒して全く新しい国を作るのではなく、朝鮮の中で新しい社会を考えていたようです。結局、興宣大院君を頼っていつのまにか興宣大院君が権力を得るための駒として使われ死んでいきました。尊王攘夷の志士に似た部分があります。

 

テレビドラマ

明成皇后 2001年、KBS 演:チョン・ピョンオク
緑豆の花 2019年、SBS 演:チェ・ムソン

 

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