女里(じょり)は10世紀の遼(契丹)の役人で武人。
契丹人ですがもともとは身分の高い人ではなく、3代世宗 耶律兀欲(やりつ・こつよく)の宮殿で働く宮人(召使い)でした。
女里(じょり)の漢字は契丹語の発音を写した当て字なので意味はありません。
世宗 耶律兀欲の息子・耶律明扆の屋敷で働いていたので仲良くなり。
やがて禁軍(親衛隊)の隊長になり明扆の即位に協力しました。
契丹の人々には強欲な人物として知られていました。
しかしその後、蕭思温暗殺の疑いがかけられ処刑されました。
史実の女里はどんな人物だったのか紹介します。
女里(じょり)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:978年
名:女里(じょり)
字:涅烈袞(ねれつこん)
姓:不明
国:遼(契丹)
父:不明
母:不明
妻:不明
子供・不明
彼が生きたのは遼(契丹)の3代世宗~5代景宗の時代です。
日本では平安時代の人になります。
女里(じょり)の生年は不明。遼世宗の積慶宮で働く宮人でした。
遼穆宗の時代
応歴初年(951年)。司馬小底になり、馬群侍中に昇進しました。
耶律明扆の藩邸に仕えていたので耶律明扆とは親しくなりました。
女里は馬を見る目があって。良い馬を見分けることができたといいます。
耶律明扆の時代
耶律明扆の即位に協力
応歴19年(969年)2月。穆宗が殺害されました。それを知った女里は耶律明扆のもとに走りました。禁軍の500の護衛兵とひきつれ侍中 蕭思温や南院枢密使の高勳たちとも連絡をとり耶律明扆を次の皇帝に擁立しました。景宗・耶律明扆が即位しました。
女里は景宗の即位に協力した功績で政事令になりました。
保寧3年(971年)。契丹行宮都部署に任命されました。
その後、守太尉に昇進。
欲深い女里
北漢の英武帝・劉継元(りゅう・けいげん)は女里が遼景宗から信頼されていると聞き、女里の誕生日にお祝いの品を贈りました。
その後も、女里は劉継元からの賄賂を受け取りました。
女里は蕭阿不底と親しくしていました。女里は蕭阿不底とも強欲で汚職の多い人物として知られていました。そのため街では豪華な毛皮を来た人がいると「女里や阿不底に出会ったら取られてしまうぞ」とからかいのネタになるほどでした。
保寧10年(978年)。鎧500を個人的に所有していた罪で調査を受けました。
その後、枢密使の蕭思温(皇后 蕭綽の父)の暗殺を企てたことが発覚。
その年の5月。賜死になりました。
宮人から親衛隊に出世しましたが、欲深くなりそれ以上に高い地位を求めようとして身を滅ぼしたのかもしれません。
逸話
女里は馬を見分けるのが上手い人物でしたが。こんな逸話があります。
女里は母親が亡くなり喪に服していました。あるとき女里が雅伯山に行くと巨人がいたので女里は恐れて逃げました。すると巨人は「恐れることはない。私は大地の神である。 ここに母を埋葬て、宮殿に行けば出世するだろう」といいました。
女里は巨人の言う通りに母を埋葬すると旅に出ました。女里は馬を見分けるのが上手で、良い馬とそうでない馬の違いを見分けることができました。郊外で何頭もの馬の足跡を見て「これは駿馬!」と指差しまし。そして女里は自分の馬とその馬を交換しました。女里が手に入れた馬は名馬にりました。
というもの。この話は「遼史」という正史に載っている話。巨人(大地の神)がでてくるなど空想話のようで事実とは思えません。女里はそういう噂がでるほど馬を見る目があったのでしょう。人々からは、身分の低い彼が高い地位になったのが不思議がられたという事かもしれません。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:蔣冰
飛龍使
穆宗の時代 禁衛軍指揮使
景宗の時代 禁衛軍指揮使 兼 契丹行宮都部署
景宗の即位に協力。景宗の朝廷で蕭思温の存在感が大きくなり、彼を疎ましく思って蕭海里と蕭海只をそそのかして蕭思温を暗殺させました。太平王 耶律罨撒葛の手先になり燕燕たちと対立。罨撒葛が起こした謀反の途中に耶律休哥によって殺害されました。
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