耶律虎古(やりつ・りこ)は10世紀の遼(契丹)の将軍で政治家。
太祖 耶律阿保機の子孫ではありませんが。遠い遠戚になります。
景宗、聖宗の時代に重要な役職を任されていました。
韓匡嗣・韓徳讓親子との因縁もある人物です。そのためドラマでは悪役として描かれがちですが。耶律虎古は有能な武将で判断力も優れていました。
聖宗・蕭綽との親密さでは韓匡嗣・韓徳讓親子よりも劣るため、肝心なところでは味方になってもらえず見殺しにされてしまいます。
史実の耶律虎古はどんな人物だったのか紹介します。
耶律虎古の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:990年
姓 :耶律(やりつ)氏
名称:虎古(ここ)
国:大契丹国(大遼)
地位:
称号:
父:不明
母:不明
妻:不明
子供:耶律磨魯古
彼は穆宗~聖宗時代の人物です
日本では平安時代になります。
契丹六院部夷離菫 耶律覿烈の孫。
清朝がヌルハチの子孫の愛新覚羅氏と、親族の覚羅氏に分けたように。契丹も一族を皇室と、五院部、六院部、横帳、三父房に分けました。
太祖・耶律阿保機の子孫とそれ以外の一族に分けたのです。
耶律虎古は六院部の出身で、耶律阿保機の親戚の子孫。皇位継承権はなく、皇帝一族からは遠い親戚のようになっていました。
耶律虎古は穆宗の時代はあまり優遇されていません。
重要な役職を与えられるようになったのは景宗 が即位してからです。
保寧初年(969年)。御琖郎君に任命されました。
北宋に使節として行く
保寧10年(978年)。北宋に使者として行きました。
遼(契丹)と北宋は何度も戦いましたが使節の往来もあります。戦っては和睦を繰り返していました。
978年に宋の太宗 趙炅とその息子・趙元佐は契丹の使者と会って一緒に狩りをしました。そのとき契丹の使者は趙元佐の弓矢の腕前に驚いたと宋の記録にあります。もしかすると趙炅、趙元佐が会ったのは耶律虎古だったかもしれません。
耶律虎古は北宋を直接見てきて侮れない相手だと思ったのでしょう。
北宋の攻撃を予想
帰国後、耶律虎古は景宗に「宋は北漢を攻撃するつもりです」と言いました。すると燕王 韓匡嗣は「なぜ宋人が北上するとわかるのだ?」と聞きました。
耶律虎古は「中原の国々は皆、北宋に攻められて降伏しました。残っているのは河東だけです。今、宋は戦の訓練をしています。北漢を攻めるのは間違いありません」と進言しました。
ところが軍事に疎い 韓匡嗣は耶律虎古が危機を煽っているだけだと思い、守備兵を増やすことに反対。景宗は耶律虎古よりも韓匡嗣の意見を採用。北宋を迎え撃つ準備はしませんでした。
乾亨元年(979年)。北宋が北漢に攻め込み、北漢は滅亡しました。北宋は勝った勢い遼に攻め込み、幽州(現在の北京付近)は攻められてしまいす。
このとき韓匡嗣の息子の韓徳讓が南京留守の代理を努めていました。韓徳讓たちの頑張りや耶律休哥たちの援軍が間に合ってなんとか幽州は守られましたが。耶律虎古の言う通り、戦いの備えをしていればそこまで苦戦はしなかったかもしれません。
韓徳讓の美談として語られがちなこの戦いですが。景宗と韓匡嗣の判断ミスが招いた部分もあります。
戦いの後。景宗は耶律虎古を呼んで先見性の高さを褒め「朕も匡嗣も考えが及ばなかったのだ」と言い。遼景宗は以耶律虎古を涿州刺史に任命しました。
韓匡嗣は宋の内通者だと疑われても仕方ありません。景宗は韓匡嗣をよほど信頼してたのでしょう。だから景宗はその後の戦いで韓匡嗣に汚名返上、手柄を立てる機会を与えたのかもしれませんが。その戦いでも韓匡嗣はミスをしてしまいます。
遼聖宗の時代
統和初年(983年)。皇太后 蕭綽が摂政になりました。
耶律虎古は都に呼び戻され、京師上京臨潢府に任命されました。
統和8年(990年)。朝議の場で韓徳讓と口論になりました。怒った韓徳讓は護衛兵の仗を奪うと耶律虎古の頭を叩いて撲殺しました。
確かに耶律虎古は過去に韓匡嗣を侮辱したことがあります。韓徳讓は父が侮辱されたことを根に持っていたのかもしれません。
でも皇帝のいる眼の前で会議の最中に皇族を殺害するのは重大な犯罪行為です。韓徳讓以外の者が行なったら間違いなく処分されます。その場にいた者たちは唖然となりました。でも皇太后 蕭綽は韓徳讓を処罰しませんでした。
皇太后 蕭綽は韓徳讓と親密な関係になっていました。韓徳讓が何をしても誰も逆らえません。それほどまでに韓徳讓の権力は強くなっていました。韓徳讓は確かに有能な人物ですが聖人君主ではありません。個人的な恨みで人を殺害することもあります。それでも蕭綽は韓徳讓を庇いました。
耶律虎古は、個人の愛情を政治に持ち込みがちな皇太后 蕭綽の犠牲になってしまったようです。
テレビドラマ
燕雲台 2021年、中国。 演:韓東
遼の漢化に反対する精力のひとり。
息子の耶律磨魯古よりは良識があるもの、漢化を進める景宗、韓徳讓たちのことは快く思っていません。ドラマでは韓徳讓を善人として描いているので、耶律虎古は悪役として描かれます。
歴史上の耶律虎古とその息子の耶律磨魯古は背が低く太った悪者ではありません。二人とも乗馬と射撃に優れ勇敢で頭の良い武将でした。宋軍と戦では体が傷だらけになるまで戦い続けました。
ドラマ「燕雲台」では韓徳讓を美化するために不当に貶められているようです。
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