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ドルゴン・幼い皇帝の代わりに清朝を動かした摂政王

大清 1.3 清の皇子・男の皇族

ドルゴンは後金や大清帝国の皇族。

清朝2代皇帝ホンタイジの異母弟です。

ドルゴン自身は皇帝にはなりませんでしたが、摂政として幼い皇帝の代わりに政治をおこないました。

その権力は強く「摂政王」と呼ばれます。

史実のドルゴンなどんな人物だったのか紹介します。

 

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ドルゴンの史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年
没年月日:1650年

姓:愛新覚羅(アイシンギョロ、あいしんかくら) 
名:多爾袞(ドルゴン)
称号:和碩睿親王、成宗
父:ヌルハチ(後金の初代ハン(国王))
母:アバハイ(ウラナラ氏)

ドルゴンは後金から清朝初期の人物。
李氏朝鮮時代中期。
日本では江戸時代初期になります。

おいたち

後金のハン(王)ヌルハチの14男として生まれました。

母は四番目の正妃のアバハイです。

名前の「ドルゴン」は満洲語で「アナグマ」を意味します。

1626年。ドルゴンが15歳のときヌルハチが死亡。母アバハイは殉葬されました。母は父の墓に埋められました。

生前のヌルハチは後継者を決めていなかったので王族会議で兄ホンタイジが次のハンに選ばれました。

ヌルハチの時代。ドルゴンはまだ成人してなかったので実戦には参加せず実績もありません。

ドルゴンが王位を継ぐはずだった?

ところが。ヌルハチはドルゴンを後継者にする遺言を残したのにホンタイジが遺言を握りつぶして自分が王になった。という話があります。

清朝時代からこの噂は存在していました。満洲人の支配を嫌う漢人や朝鮮人が広めていたようです。当時の人々が残した「噂」を根拠に現代でもホンタイジがドルゴンの王位を奪ったと信じている人もいますが。当時の状況からいえばそれはありえません。

アバハイの息子にはアジゲ、ドルゴン、ドドがいました。ヌルハチが死去したとき。アジゲは成人していました。でもドルゴンはまだ成人していませんし実戦での経験もありません。

実績のないドルゴンと違ってアジゲはすでに戦場での手柄をたて父ヌルハチからも可愛がられていました。

もしこのときヌルハチがアバハイの子に王位を継がせようとしたらアジゲを遺言に残したでしょう。でもヌルハチは後継者の決定を王族会議に任せました。

なぜドルゴンではなくホンタイジが後継者になったのかはこちらを御覧ください。

ホンタイジが後金2代ハンになった理由

 

ホンタイジの時代

ドルゴンは後金・清の領土拡大に貢献します。

モンゴルとの戦いではドルゴンはホンタイジとともに出陣。敵を撃破する手柄をたてました。その功績でドルゴンはホンタイジから「メルゲン・ダイチン(賢い司令官の意味)の称号が与えられました。

天聡9年(1635年)。ドルゴンはモンゴルを攻め。リンダン・ハーンの息子エジェイを捕虜にして、元朝に伝わる「伝国玉璽」を入手しました。この玉璽を入手した後、ホンタイジは「ハーン(皇帝)」に即位。国名を「大清」に変えます。

崇徳元年(1636年)。朝鮮との戦いでは海軍を率いて朝鮮の王族が立て籠もる江華島を攻撃。その後、仁祖の立て籠もる南漢山城を攻撃。仁祖の降伏後は人質の朝鮮王族を後金に護送する役目を担当しました。

崇徳3年(1638年)。ドルゴンは「睿親王」の称号が与えられ。明との戦いでは左翼軍を担当。長城の董家口から明の領内に入り荒らし回りました。

崇徳4年(1639年)。遼東の明領内にへ進軍。人や家畜26万を奪って戻りました。

崇徳6年(1641年)から崇徳7年(1642年)にかけて行われた松錦の戦いでは、ドルゴンとジルガランが清軍を率いて戦いました。途中でホンタイジも合流。この戦いで遼寧省東部はすべて清朝の領土になり、明軍は山海関に退却しました。

崇徳8年(1643年)。ホンタイジが死去。

同母兄アジゲは気性が荒く何度かトラブルを起こしてホンタイジから怒られていました。でもドルゴンはホンタイジに忠実に従いました。アジゲ、ドルゴン、ドド兄弟は正白旗と鑲白旗を所有していましたが。同母兄弟の中ではドルゴンが最も出世しました。

ヌルハチ同様ホンタイジは後継者を決めずにこの世を去りました。君主に後継者を決める権利はなく王族会議で新しい君主を決めるのが満洲人の習慣だったからです。

会議ではドルゴンとホンタイジの長男ホーゲが有力候補になりました。

結局、二つのグループが対立すると清が分裂してしまうのでホンタイジの九男フリン(順治帝)が即位しました。順治帝はわずか6歳でした。

 

ドルゴンの摂政時代

幼い皇帝を支えるためドルゴンと王族のジルガランが摂政になりました。でもジルガランではドルゴンを抑えることはできません。

二つのグループが対立すると清が分裂してしまうため、ホンタイジの9男フリン(順治帝)が即位しました。順治帝はわずか6歳でした。

幼い皇帝の代わりにドルゴンとジルガランが摂政として政治を行いました。

ジルガランはヌルハチの弟シュルハチの息子です。でもドルゴンは力を付けていきます。

1644年。ホーゲがドルゴンを批判しているのを聞くと、ホーゲが謀反を企んでいると訴えました。順治帝は泣いて兄ホーゲを助けました。

1647年。権力を拡大したドルゴンはジルガランから摂政の座を奪いました。同母弟ドドやアジゲを要職につけて、身内でかためました。

ホーゲはその後、戦場で手柄を立てつづけます。ホーゲを危険に思ったドルゴンはホーゲに謀反の疑いをかけて殺そうとしました。このときも順治帝は処刑を認めませんでしたが、ドルゴンはホーゲを捉えて投獄しました。ホーゲは獄中で死亡しました。

ますます権力を手にしたドルゴンは横暴になりました。「摂政王」「叔父摂政王」などと名のっています。

ホーゲの死後、彼の側室ボルジギト氏を自分の妃にしました。

1650年。ドルゴンは狩りの最中に死亡しました。成宗の廟号をあたえられました。王でもないのに「宗」の名を与えられるのは異例です。

ところが、ドルゴンの死後。押さえつけられていたドルゴンの反対勢力の不満が爆発。

1651年。ドルゴンは罪人にされました。ドルゴンの位は剥奪されて、墓が暴かれ遺体を斬首にされました。

1778年。ドルゴンの名誉は回復しました。 

 

ドラマのドルゴン

 

皇后の記 2015年、中国 演:耿楽
獨步天下(原題) 2017年、中国 演:屈楚蕭
王家の愛 2018年、中国 演:厳寛

 

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