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太武帝 華北を統一した武闘派皇帝のあっけない最期

6.1 北朝・魏・周・斉

太武帝(たいぶてい)は北魏の第3代皇帝。

本名は 拓跋燾(たくばつ とう)。

北魏は十六国時代に鮮卑系の拓跋氏が作った国。三国時代の曹氏が作った魏(曹魏、前魏ともいいます)ではありません。

太武帝は積極的に遠征を行い、北魏の領土は倍に増えました。太武帝の時代に北魏にとって華北が統一され、南北朝時代を迎えたとされます。

史実の太武帝はどんな人物だったのか紹介します。

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太武帝の史実

いつの時代の人?

生年月日:408年
没年月日:452年3月11日

在位: 423年12月27日 ~ 452年3月11日

姓:拓跋(たくばつ)
名:燾(とう)
字:仏狸
称号:太武皇帝(たいぶこうてい)
廟号:世祖
父:明元帝(北魏2代皇帝)
母:杜貴嬪
正室:
太夫皇后・赫連氏
敬哀皇后・賀氏
他に側室多数。

子供:
景穆太子 拓跋晃
晋王 拓跋伏羅
東平王 拓跋翰
臨淮王 拓跋譚
広陽王 拓跋建
南安隠王 拓跋余
など。

彼は北魏の第3代皇帝。

国の名前は「魏」ですが、他の「魏」と区別するために歴史上は「北魏」と呼びます。北魏は遊牧民族鮮卑の拓跋氏が中心になって作った国です。十六国時代から南北朝時代にかけて中国に存在しました。

日本では古墳時代になります。

おいたち

408年に生まれました。父は皇帝・明元帝

字(あざな:本名以外につける通称)は仏狸。これは古代テュルク語で狼の意味です。鮮卑人がテュルク語を使っていたためです。

明元帝の治世。
明元帝が劉宋と戦っている間、拓跋燾は北に出兵し柔然への守りを担当しました。

422年。皇太子になりました。

423年。明元帝が死去。拓跋燾(たくばつ とう)が北魏の皇帝になりました。このとき16歳でした。

太武帝は柔然との戦いを続け、425年には柔然を撃退することに成功します。

425年。劉宋との間に和平が成立。

夏との戦い

太武帝が狙いを定めたのは夏でした。

426年。太武帝は夏が西秦を攻めている間に、夏に軍を派遣。夏の城をいくつも占領しました。427年にも軍を派遣して都の統万城を占領しました。夏は残った兵力で抵抗しましたが、428年に夏帝 赫連昌(かくれん しょう)を捕らえました。

ところが赫連昌の弟・赫連定(かくれん てい)が逃亡先の平涼で新しい皇帝になりました。赫連定は北魏に反撃、城をいくつか奪い返されます。430年。夏は劉宋と同盟して統万城を脱会しようとしました、太武帝は軍を派遣して夏軍を撃退、平涼を占領しました。赫連定は上邽に逃れました。431年。夏を滅亡させます。

北燕との戦い

夏を滅亡させた太武帝は翌年から北燕を攻撃しました。

北燕の皇帝・馮弘は劉宋の配下になって支援を受けて北魏に抵抗しました。

436年。太武帝は北燕に大軍をおくりました。戦いに敗れた馮弘は高句麗に亡命。

ここに北燕は滅亡しまた。

太武帝は高句麗に圧力をかけて馮弘を処刑させました。

北涼との戦い

夏を滅亡させた太武帝が次の目標にしたのは北涼でした。

433年には北涼に圧力をかけて沮渠 牧犍(そきょ ぼくけん)を北涼の皇帝にさせました。北涼からは牧犍の妹・興平公主を側室に迎えました。人質です。

437年。太武帝の妹・武威公主を牧犍と結婚させました。

439年。ところが北涼で武威公主の毒殺未遂事件がおこります。容疑者の引き渡しを拒否した北涼に対して太武帝が自ら遠征。北涼を滅ぼしました。

華北にはまだ後仇池が残っていましたが、小さな国なので北魏に対抗できる力はありません。事実上の華北統一です。

442年。後仇池を滅ぼしました。これで華北に存在する国は北魏だけになりました。

南北朝時代

北方民族の侵入から首都の平城を守るため。内モンゴルの国境沿い鮮卑や匈奴などの有力豪族を移住させました。主に6つの軍団からなっていたので「六鎮」といいます。

450年。大軍を率いて遠征を行い、南朝の劉宋と戦いました。この戦いで勝利して5万の宋民を捕虜として連れて帰りました。戦いに敗れた劉宋はこのあと衰退します。

仏教弾圧

太武帝は道教を進行していました。心酔していた道教教団・新天師道の開祖・寇謙之や漢人官僚の崔浩らの勧めで北魏国内で僧侶に施しをするのを禁止しました。

446年には長安の寺院から武器が見つかったので、廃仏の勅命を出しました。寺院や仏像を破壊、僧侶を処刑しました。

漢人を重用

北魏の領内には漢人が多く住んでいました。華北に鮮卑が来る前は漢人が住んでいたからです。太武帝は漢人の役人を採用しました。

とくに太武帝が信頼していたのが崔浩(さい こう)です。漢の時代から続く名門出身でした。崔浩は太武帝の華北統一に貢献しました。

崔浩自身も道教の信者でした。

崔浩ら漢人官僚のもとで北魏の漢人化が進みます。南朝風の貴族制度を取り入れようとしました。しかし急速な漢人化に対して鮮卑人の間からは不満が起こりました。

450年。太武帝は崔浩が編纂した国史の内容が「鮮卑を侮辱したものだ」と口実をつけ崔浩を処刑しました。

皇太子の死

太武帝は長男・拓跋晃(たくばつ こう)を皇太子にしました。有能で将来を期待していました。

ところが皇太子・拓跋晃は素行の悪い宦官の宗愛(そう あい)を嫌っていました。

不仲になった拓跋晃と宗愛が対立、宗愛は嘘の証言で拓跋晃の部下達に罪をかぶせて処刑に追い込みます。

451年。憤慨した拓跋晃は体調を壊して死亡しました。

宦官による暗殺

太武帝は愛する息子の死を大変嘆き悲しみました。

その様子に危機感をもったのが宗愛です。いずれ太武帝に処刑されるのではないかと考え、

452年2月。太武帝は宗愛によって暗殺されました。

北魏を発展させた皇帝のあっけない最期でした。

太武帝を殺害した宗愛は太武帝の末息子・南安王拓跋余を担いで皇帝にしました。

 

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