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乾隆帝の皇子たち17人の紹介

乾隆帝皇子 1.3 清の皇子・男の皇族

清朝の第6代皇帝・乾隆帝には17人の息子と10人の娘がいました。

乾隆帝の息子17人をすべて紹介します。

「如懿伝」「瓔珞」などのドラマでも皇子たちは登場します。

「瓔珞」は主要な皇子だけ登場して半分以上の皇子が出番がありません。「如懿伝」では映像化されている期間が長いこともあって多くの皇子たちが出てきます。将来の皇帝候補ということもあり。ドラマでは様々な駆け引きや陰謀の材料にされ、その多くが犠牲になってしまいます。

ドラマには登場する皇子はもちろん、登場しない皇子も含めて実際にはどのような皇子たちがいたのでしょうか。

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乾隆帝の皇子たち

永璜(えいこう)

大阿哥(第一皇子)
称号:定安親王(追謚)
母:哲憫皇貴妃・富察氏

生:1728年7月5日
没:1750年4月21日(享年23)

弘暦の庶長子。皇后 富察氏の葬儀で儀式を担当したところ。「悲しみ方が足りない」と乾隆帝に怒られます。もう皇太子にはなれないと思い絶望してうつ病になって死亡。
死後、後悔した乾隆帝によって「定安親王」の称号を与えられます。

 定安親王 永璜の詳しい説明はこちら

「如懿伝」では最初は野心的でないものの徐々に野心的になる皇子として描かれました。
「瓔珞」には未登場。

永璉(えいれん)

二阿哥(第二皇子)
称号:端慧皇太子(追謚)
弘暦の嫡長子
母:孝賢純皇后 富察氏

生:1730年8月9日
没:1738年11月23日(享年9)

弘暦の正妻が生んだ最初の男子(嫡子)。9歳で病気で死亡。秘密皇太子制度のため生前は皇太子の発表はありませんでした。死後、皇太子の称号を与えられます。葬儀も皇太子の格式で行われました。

「如懿伝」では病弱。さらに海蘭の陰謀で死亡。
「瓔珞」ではすでに故人。皇后の心の傷になっている存在。

永璋(えいしょう)

三阿哥(第三皇子)
称号:循郡王
母:純恵皇貴妃 蘇氏
  蘇氏の長男

生:1735年7月15日
没:1760年8月26日(享年26)

大阿哥永璜とともに富察皇后の葬儀で失礼な態度をとったので乾隆帝から怒られます。母・純貴妃 蘇氏が肺の病気になり看病をしていたところ感染。母の死から2ヶ月後。永璉も病死しました。

「如懿伝」では野心的な皇子として描かれました。
「瓔珞」には未登場。

永珹(えいせい)

四阿哥(第四皇子)
称号:貝勒→履端親王
母:淑嘉皇貴妃 金氏
  金氏の長男

生:1739年2月21日
没:1777年4月5日(享年39)

乾隆帝が皇帝即位後に生まれた最初の皇子。
和碩履懿親王・允祹(康煕帝の12男)の死後。履親王の称号を継ぎました。

履親王 永珹の詳しい説明はこちら

永琪(えいき)

五阿哥(第五皇子)
称号:貝勒→栄親王→栄純親王(追謚)
母:愉貴妃 珂里葉特氏
  珂里葉特氏の長男

生:1741年3月23日
没:1766年4月16日(享年26)

勉強熱心で西洋の学問も学んでいました。乾隆帝からは将来を期待されていました。最も次の皇帝にふさわしいと思われていました。しかし若くして結核で死亡しました。

ドラマでも若くして他界する優秀な皇子として描かれることが多いです。

栄純親王 永琪の詳しい説明はこちら

永瑢(えいよう)

六阿哥(第六皇子)
称号:質荘親王
母:純惠皇貴妃 蘇氏
  蘇氏の次男

生:1744年1月28日
没:1790年6月13日(享年47)

乾隆帝の勅命で編纂された書籍全集「四庫全書」の総責任者。書道や絵画に優れた文化人でした。

ドラマではあまり出てきません。

永琮(えいそう)

七阿哥(第七皇子)
称号:哲親王
母:皇后 富察氏
  富察氏の次男

生:1746年5月27日
没:1748年1月29日(享年3)

永琮の誕生に皇后と乾隆帝は非常に喜びました。数え歳3歳で疱瘡で死亡。実際に生きたのは1年7ヶ月あまり。3ヶ月後。皇后 富察氏も病気で死亡します。

どのドラマでも陰謀の犠牲になり悲劇的な扱いを受けることが多いです。

永璇(えいせん)

八阿哥(第八皇子)
称号:儀慎親王
母:淑嘉皇貴妃 金氏
  金氏の次男

生:1746年8月31日
没:1832年9月1日(享年87)

清朝の皇子の中で最も長生きしました。

永瑜(えいゆ)

九阿哥(第九皇子)
称号:なし
母:淑嘉皇貴妃 金氏
   金氏の三男
生:1748年8月2日
没:1749年6月11日(享年2)

生後わずか10ヶ月で死亡。

皇十子

名前:なし
十阿哥(第十皇子)
称号:なし
母: 舒妃 葉赫那拉 氏
   葉赫那拉氏の長男

生:1751年6月12日
没:1753年7月7日(享3)

幼くして病死。

永瑆(えいせい)

十一阿哥(第十一皇子)
称号:成哲親王
母:淑嘉皇貴妃 金氏
   金氏の四男
生:1752年3月22日
没:1823年5月10日(享年72)

富察傅恒の娘と結婚しましたが妻を虐待。乾隆帝から注意されても改めませんでした。意外にも書道が上手く、乾隆時代の著名な書道家の一人でした。嘉慶帝時代におきた天理教の反乱(癸酉の変)では反乱の鎮圧に参加。手柄を立てました。乱暴な言動も多く何度か解雇されています。

乾隆帝の妃嬪で男子4人を生んだのは金氏と魏氏だけ。金氏の寵愛が大きかったことがわかります。

永璂(えいき)

十二阿哥(第十二皇子)
称号:貝勒
母:継皇后 輝発那拉氏
  輝発那拉氏の長男
生:1752年6月7日
没:1776年3月17日(享年25)

15歳のとき母が幽閉されて死去。20のとき辞典「御製満蒙文鑑」を編纂。乾隆帝に見せると修正点はありましたが良い評価を受けました。生涯、母のことは語りませんでした。そのかわり仲のよかった兄弟を懐かしむ詩を作っています。

永璟(えいけい)

十三阿哥(第十三皇子)
称号:悼瑞皇子(追封)
母:継皇后 輝発那拉氏
  輝発那拉氏の次男
生:1756年1月22日
没:1757年9月7日(享年2)

2歳で病死。

母・輝発那拉氏は皇子を2人生んでいます。

永璐(えいろ)

十四阿哥(第十四皇子)
称号:なし
母:孝儀純皇后 魏氏
  魏氏の長男
生:1757年8月31日
没:1760年4月23日(享年4)

4歳の時病死。

永琰(えいたん)

十五阿哥(第十五皇子)
称号:嘉親王→嘉慶帝
母:孝儀純皇后 魏氏
  魏氏の次男
生:1760年11月13日
没:1820年9月2日(享年61)

後の7代皇帝・嘉慶帝。
母・令貴妃魏氏には子供が多かったので慶妃陸氏に育てられました。

即位後は母・令皇貴妃 魏氏を「孝儀純皇后」に追封。即位後4年間は乾隆帝が生きていたので実権は乾隆帝が握っていました。

乾隆帝の後半から清は堕落し始めていたのでそのツケが嘉慶帝の時代に出てきて反乱が目立った時代です。嘉慶帝はなんとか乗り切りましたが。全盛期を過ぎて落ち目になった国を何とかしようともがいた皇帝でした。

永㻇(えいぜん)

十六阿哥(第十六皇子)
称号:
母:孝儀純皇后 魏氏
  魏氏の三男
生:1763年1月13日
没:1765年5月6日(享年3)

3歳で病死。

永璘(えいりん)

十七阿哥(第十七皇子)
称号:慶僖親王
母:孝儀純皇后 魏氏
  魏氏の四男
生:1766年6月17日
没:1820年4月25日(享年55)

乾隆帝の末っ子。10歳のとき母の令皇貴妃 魏氏が死亡。その後は穎妃 巴林氏に育てられました。

14皇子から17皇子まではすべて魏氏の子供。乾隆帝は寵愛する妃嬪が偏るようです。

親が長生きすると子は大変

乾隆帝には17人の息子がいました。
当時は今より子供の死亡率が高く、成人しても人生50年時代。
短命な皇子が多いのは仕方ないのかもしれません。

でも89歳まで長生きした乾隆帝の息子たちにしては短命な人が多いようです。

20歳まで生きたのは10人。
50歳まで生きたのは4人です。

乾隆帝自身は長生きしたのに不思議なものです。

乾隆帝が退位した86歳のときには息子は4人しか生きていませんでした。
八阿哥・永璇、十一阿哥・永瑆、十五阿哥・永琰、十七阿哥・永璘

永璇、永瑆が嘉貴妃・金氏の息子。
永琰、永璘が令皇貴妃・魏氏の息子です。

この中で即位したのが魏氏の生んだ令皇貴妃の息子 永琰です。

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