愛新覚羅 胤禛(いんしん)は清朝の皇子。
康熙帝の第四皇子(四阿哥)。
後の第5代皇帝 雍正 です。
母親の身分が低く王位後継者ではなかったと言われます。
王子同士の王位継承社争いに勝ち抜いて皇帝になりました。
史実の胤禛はどんな人物だったのか紹介します。
胤禛の史実
いつの時代の人?
生年月日:1678年12月13日
没年月日:1735年10月8日
在位期間:1722年12月20日~1735年10月7日
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、アイシンギョロ)
名:胤禛(いんしん、インジェン)
諡号:憲皇帝
廟号:世宗
父:康熙帝
母:徳妃 烏雅氏(孝恭仁皇后)
正室:
孝敬憲皇后 烏拉那拉氏
孝聖憲皇后 鈕祜祿氏
側室:
敦粛皇貴妃 年氏
純愨皇貴妃 耿氏
斉妃 李氏
謙妃 劉氏
寧妃 武氏
懋嬪 宋氏
他
即位するまでに生まれた子は
8男4女
弘暉、弘昐、弘昀、弘時、弘曆(乾隆帝)、弘晝、福宜、福惠
他
彼は清王朝の第4代皇帝・康熙帝の第四皇子。
後に雍正帝になります。
日本では江戸時代になります。8代将軍 徳川吉宗と同じ時代の人物です。
おいたち
康熙17年(1678年)12月13日。胤禛誕生。
母の徳妃 烏雅(ウヤ)氏は満洲人ですがあまり高い身分ではありません。満洲正黄旗人包衣佐領の娘でした。
幼いころ皇貴妃 佟佳氏に育てられていました。当時は皇后がいなかったので皇貴妃 佟佳氏が後宮の最高位でした。佟佳氏は何人もの皇子や皇女を育てました。胤禛だけを育てるわけにもいかないので実際には順善夫人王氏や和恭勤夫人謝氏が乳母になりました。
皇貴妃 佟佳氏が養育係の責任者といったところでしょうか。
胤禛は物心ついたときから皇貴妃 佟佳氏の教育を受けて育ちました。 佟佳氏の兄弟姉妹にも敬意を持って接していました。
佟佳氏の弟・隆科多(ロンコド)も「隆科多叔父さん」と呼んでいました。
父・康煕帝からは「辛抱が足りない」といわれ「急がず我慢する心」を教えられました。
辛抱する心は後継者争いの中で発揮されました。辛抱の足りなさは、皇帝になったあとの兄弟や重臣の粛清にあらわれているようです。
胤禛は実母・烏雅(ウヤ)氏との仲があまり良くなかったこともあり、養母の思い出は強く心に残ったようでした。
1689年(康熙28年)。孝懿仁皇后 佟佳氏が死去。
胤禛が11歳のときでした。佟佳氏に育てられたのは生まれてから10年あまりの間でしたが胤禛の人生には大きく影響を与えたようです。後に皇帝になった胤禛は佟佳氏に育てられた日々を「教育の10年」と言っています。
康熙37年(1698年)。鑲白旗旗王になりました。多羅貝勒(ドロイベイレ)になりました。上から三番目の爵位です。
皇子たちの後継者争い
康熙47年(1708年)。皇太子 胤礽が廃されました。
兄・胤礽の復位を支持する一方で当時、最大派閥の八阿哥・胤禩とも良好な関係を保っていました。
康熙帝は大阿哥 胤禔と八阿哥 胤禩が皇太子 胤礽の殺害を計画したと疑いました。康熙帝は大阿哥 胤禔を幽閉。八阿哥・胤禩を嫌うようになります。すると胤禛は八阿哥 胤禩とは距離をおくようになります。
康熙48年(1709年)。胤礽が皇太子に復帰しました。
胤禛は和碩雍親王になりました。王族に与えられる最も高い爵位です。
康熙50年(1711年)。格格 鈕祜祿氏(後の熹妃、孝聖憲皇后)が胤禛の四男・弘曆(後の乾隆帝)を出産しました。
康熙50年(1711年)。皇太子胤礽が再び廃位されます。このときは胤礽の復位を目指す重臣がいましたが、康煕帝は彼らを罰しました。胤禛も胤礽をかばおうとはしなくなりました。
その後、康熙帝は皇太子を決めませんでした。
康熙帝は皇子や重臣が派閥を作るのを嫌いました。そこで胤禛は大きな派閥は作らず目立たないように行動しました。
大阿哥と二阿哥が幽閉中なので最年長の皇子は三阿哥と四阿哥になります。
四阿哥 胤禛と三阿哥 胤祉が皇帝の補佐をする機会が増えました。
康煕帝は孫の弘曆を大変可愛がりました。「お気に入りの孫の親」という立場も 胤禛には有利だったかもしれません。
同母弟 胤禵の評判が高まる
1718年(康煕57年)。ジューンガルとチベットの戦争が始まり、チベットが清に援軍を求めてきました。康煕帝は十四阿哥 胤禵を「撫遠大将軍王」に任命。康煕帝は「大将軍王は皇帝の皇子である」と宣言。盛大な出陣式をして軍の士気を高めて送り出しました。
人びとは康煕帝は十四阿哥 胤禵を皇太子に決めたのではないか。と噂しました。しかしジューンガルとの戦争は簡単には終わりません。十四阿哥 胤禵は4年以上都を開けることになります。
十四阿哥 胤禵の補佐をして実際に戦場で指揮をとったのが年羹堯(ねん・こうぎょう)。当時、清で最も強い将軍の一人です。年羹堯は胤禛の側室・年氏の兄です。
康熙帝の後継者になる
その後も四阿哥 胤禛は皇帝の補佐をしていました。皇帝の代わりに冬至の祭祀を行ったり地方の視察に行きました。このときの経験は後に皇帝になった時、政治を行うために役に立ちました。
1722年(康熙61年)。康熙帝が病気になりました。
康熙帝は胤禛を都の南にある天壇(天の神を祀る施設)に向かわせました。胤禛は天の神に捧げる儀式を行いました。
天の神に祈る儀式は皇帝が行うものです。皇帝の座を任せると言っているも同じです。
隆科多(ロンコド)は首都や宮殿の護衛を集め厳戒態勢をとりました。皇帝の死後、皇子たちが反乱をさないよう警備するためです。
首都を守る軍隊は隆科多(ロンコド)の指揮下にありました。
やがて康熙帝が死去。隆科多(ロンコド)が「皇四子胤禛は人格が立派で皇帝の地位を継ぐ能力がある。朕のあとを継ぎ帝位に即位するように」と遺言が伝えられ、胤禛は皇帝になりました。
首都を守る隆科多(ロンコド)と最強の軍隊の指揮官・年羹堯はともに胤禛を支持しました。胤禛の派閥は小さくて目立ちませんが一人ひとりはとても大きな力を持っていました。胤禛の即位に有利に働いたでしょう。
しかし皇帝になった胤禛は様々な問題に悩まされることになります。
皇帝になったあとの胤禛についてはこちらを御覧ください。
ドラマに登場する 胤禛
宮廷女官 若曦 2011年、中国 演:吳奇隆
花散る宮廷の女たち 2017年、中国 演:鄭曉東
宮廷の茗薇 2019年、中国 演:丁橋
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