アバハイは後金のヌルハチの妃。
ヌルハチには4人の正妻がいました。アバハイはヌルハチ最後の正妻です。
フルン四国の名門ウラ部の王族出身です。ウラ部とマンジュ国の政略結婚でヌルハチに嫁ぎ大福普(王妃)になりました。
アバハイはヌルハチの間にはアジゲ、ドルゴン、ドドの三人の息子がいました。
アバハイはヌルハチの次男ジャイサンとの噂を囁かれ、大福普ヌルハチと別居状態になりましたが。また大福普に復帰。ヌルハチの相談相手になりました。
ところがヌルハチの死後、殉葬になってしまいます。
史実のアバハイ はどんな人物だったのか紹介します。
アバハイ の史実
いつの時代の人?
生年月日:1590年
没年月日:1626年
姓:ウラナラ(烏拉那拉)氏
名前:アバハイ(阿巴亥、譯阿巴海)
称号:大妃、孝烈武皇后(廃位)
地位: 福普→大福普
父:マンタイ(満泰)
母: 烏拉外姑
夫:ヌルハチ
弟:アブタイ(阿布泰)
子供
英親王 アジゲ
成宗義皇帝 ドルゴン
豫通親王 ドド
後金の初代ハン・ヌルハチの時代です。
日本では江戸時代になります。
名門ウラナラ家の出身
万曆18年(1590年)。アバハイ誕生。
父はウラ(烏拉)部のベイレ(王)マンタイ(満泰)
万曆21年(1593年)。領土拓大を続けるヌルハチのマンジュ国に対抗して、ウラ、イェヘなど9つの部族が連合してヌルハチのマンジュ国に攻め込みました。ところが連合軍はヌルハチに破れマンタイの弟ブジャンタイ(布占泰)が捕虜になりました。
その後。ウラ部はイェヘ(葉赫)部と国境を接していて領土問題で争いました。争いで不利になったマンタイは弟や一族をヘトゥアラに送り、マンジュ国のヌルハチに援助を求めました。
1596年。父のマンタイと兄ムフリがイェヘ部の援助をうけた叔父ヒンニヤ(興尼雅)殺害されました。マンタイの死後、ヌルハチはマンジュ国にいたブジャンタイをウラ部に送り返してマンタイのあとを継がせウラ部を支援しました。ヒンニヤはイェヘ部に逃走しました。
アバハイは叔父ブジャンタイの養子として育てられました。ヌルハチの力でウラ部の王になったブジャンタイはさらにヌルハチとの同名を強めるため。アバハイをヌルハチに嫁がせることにしました。
マンジュ国のヌルハチに嫁ぐ
万暦29年 (1601年)。アバハイが12歳のとき。アバハイはヌルハチに嫁がされました。
当時のヌルハチには。大福普のグンダイ(フチャ氏)、側福晋のモンゴジェジェ(イェヘナラ氏)、イルゲンギョロ氏、アミンジェジェ(ハダナラ氏)と何人かの側室がいました。
このときヌルハチは42歳。親子ほど年の離れた結婚になります。ヌルハチは若くて美しいアバハイを大変気に入りました。
後金建国で大福普になる
万暦31年 (1603年)。3番めの妻で大福普のモンゴジェジェ(ホンタイジの母)が死亡。
アバハイは大福普になりました。
後宮のトップになったのです。
子のない福普が大福普になるのは異例です。
アバハイはヌルハチが最も寵愛する妃でした。
万暦29年 (1605年)7月15日。22歳のとき、ヌルハチの12男アジゲ(阿濟格)を出産。アバハイにとってはアジゲが最初の子供です。
万暦40年 (1612年) 10月25日。14男、ドルゴン(多爾袞)を出産。
万暦42年 (1614年)2月24日。15男、ドド(多鐸)を出産しました。
天命元年(1616年)。ヌルハチは後金のハン(君主)に即位しました。
このあと。アバハイはヌルハチには内緒で総兵官バドゥリ(巴都里)の妻子に青い倭緞(織物の一種)でできた宮廷衣裳、参将軍 ムンガツ(蒙噶図)の妻には綢緞(織物の一種)の宮廷衣裳を与えました。臣下たちの妻や娘に贈り物をして人々の心をつかんでいました。
ヌルハチは「すべての福普はハンに無断で贈り物をしてはいけない」と決めていました。アバハイは違法行為を働いていたのです。女同士も違法ですが、福普が男に贈り物をしたら不倫を疑われても仕方ありません。
天命3年(1618年)。叔父ブジャンタイはイェヘ部と組んでヌルハチに敵対。ウラ部はヌルハチに滅ぼされ。ウラ部の民はマンジュ国に編入されます。アバハイの地位が変わることはありませんでした。
廃位
「満文老檔」によれば。
天命5年(1620)。ヌルハチの小福晋(側室)タイニャ(塔因)は、侍女たちが会話しているのを聞いてアバハイの行いを知り告発しました。
大福普(アバハイ)が夜遅くダイシャンの家に行くことが増え。ダイシャンが開く宴会では大福普は金や真珠で着飾ってベイレたちのご機嫌をとっていたというのです。出席した大臣たちは快く思っていませんでしたがダイシャンと大福普の権勢を恐れてヌルハチに言ってなかった。というものです。
まだアバハイはダイシャンとホンタイジに食べ物を送りました。ダイシャンはアバハイからもらった食べ物を食べました。用心深いホンタイジは食べ物は受け取りましたが食べませんでした。
訴えを聞いたヌルハチは部下を派遣してアバハイの住居を調べさせ財産を没収。アバハイは息子のアジゲや母の家に金銀を分けて隠していました。その中にはマンジュ国ではご禁制とされている品もありました。
確かに遊牧民社会には王の死後、妃や側室たちが次の王と再婚する習慣はあります。ヌルハチも自分の死後はアバハイとダイシャンが一緒になってもいいとは思いました。
でもヌルハチはまだ生きています。王が生きている間に関係をもつのは許されませんし。そういう疑いをもたれるような事をするのはヌルハチとしては裏切られた思いでした。
ヌルハチはアバハイから「大福普」の地位を剥奪。別居しました。
その罪状は金銀を盗んで不正に蓄財したこと。ダイシャンとの不適切な関係を公に発表するのは一族の恥だと思ってできなかったのです。
アバハイは1年間、自炊をしながら小さな小屋で暮らしました。
アバハイの復位
ところがヌルハチはアバハイを忘れられませんでした。
1621年。ヌルハチは遼陽を占領。東京城(遼陽)を後金の新しい都にしました。サルフ城にいた福普たちが東京城にやってきました。その中にアバハイもいました。
ヌルハチはアバハイを再び大福普にしました。
ヌルハチはチュイエン(褚英)の息子ニカン(尼堪)の養育をアバハイに任せました。チュイエンはヌルハチの長男(母は元妃ウェイギャ氏)ですが、チュイエンは横暴が目立ったので処刑されていました。
ヌルハチはニカンの生母にも配慮してニカンの財産を共同で管理させ、浪費しないように注意しました。
アバハイの生母の烏拉外姑はヌルハチと仲が悪くヌルハチに反抗していました。ウラ部はヌルハチに潰されたので嫌うのも仕方ありません。ウラナラの旧王族を要職に採用したり、1526年には烏拉外姑たちウラ旧王族を招いて宴会を行いました。
復帰後のアバハイの記録は様々な所に出てきます。かなり積極的に活動していたようです。
ヌルハチが老いていくにつれてアバハイの発言力が大きくなり。ヌルハチは軍事や政治のこともアバハイに話して意見を求めるようになります。
ヌルハチの後宮の長になったアバハイは彼女たちとともに様々な式典に参加。宮殿の中にいるだけではなく様々な所にでかけています。アバハイはヌルハチの遠征に付いていくこともありました。
殉葬
天命11年(1626年)。68歳になったヌルハチは後金軍を率いて明の袁崇煥(えん・すうかん)が守る寧遠城を攻撃。ところがポルトガル製の大砲を大量に装備する明軍相手に、後金軍は敗北。この戦いでヌルハチは負傷しました。
ヌルハチはしばらく療養の後、復帰しましたが病に倒れて清河温泉で療養生活をおくりました。やがてヌルハチは自分の死期を悟り、アバハイを呼び寄せました。
船でやってきたアバハイは渾河の船上でヌルハチと最後の対面をしました。このときどんな言葉が交わされたのかは記録にありません。
天命11年(1626年)8月11日。ヌルハチ死去。
12日早朝には王族会議がひらかれホンタイジが次のハン(君主)に決まりました。
その後。ベイレたちがアバハイの元を訪れました。
記録には「諸王」とだけ書かれていますがハンの次に権威があるのは4大ベイレのダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジなので彼らでしょう。
アバハイはベイレたちから「ハンの遺言」を聞かされ「殉葬」するように強制されます。アバハイとともに二人の側室も殉葬を命じられています。
アバハイはまだ37歳。アバハイの長男アジゲは22歳、次男ドルゴンは15歳、三男ドドは13歳です。女真の世界でも殉職は普通ではありません。アバハイは素直に自害の命令には従いませんでした。
大ベイレたちも「先帝のご遺言ですから命令に背きたいですが背けません」と譲りません。
しかしついにアバハイは諦め、礼服を来て宝石で着飾りました。そして喪服のベイレたちにこう言いました。
「私は12歳のときから先帝に仕え26年間衣食住足りて豊かな暮らしができました。私の二人の子供ドルゴンとドドを無事育ててください」(このときアバハイの長男アジゲは成人して独立しています)
ベイレたちは泣きながらこう言いました「幼い二人の弟を私達が優しく養わなければ父をないがしろにしたことになります。弟たちは私達が養います」
天命11年(1626年)8月12日辰の刻(午前7~9時)。アバハイは首を吊って自害しました。享年38.
アハバイはヌルハチと一緒に埋葬されました。
死後のあつかい
その後。ホンタイジが即位。
ホンタイジは生母モンゴジェジェには「皇后」の称号を与えましたが。
アバハイには「大妃」の称号を与えただけでした。
順治帝の即位後。摂政のドルゴンは生母アバハイに「孝烈恭敏獻哲仁和贊天儷聖武皇后」の称号を耐えました。
しかしドルゴンの死後。
順治帝によって称号が剥奪されました。
以後、誰もアバハイの復位を望むものはいませんでした。
ホンタイジの陰謀?
後世の歴史家や物語・ドラマではヌルハチの遺言はホンタイジのでっち上げ。ドルゴンを即位させないための陰謀とされることがあります。今でもホンタイジの陰謀と信じている人はいるようです。
ホンタイジは大きな権力を持った皇帝をイメージします。でも即位したばかりの頃は四大ベイレの共同で統治しなければいけないほど権力は小さかったのです。ホンタイジの独断で遺言を偽造するのは難しいでしょう。
しかもドルゴンはまだ15歳。アバハイの息子に継がせるならドルゴンよりもまずアジゲ(22歳)に優先権があります。戦争が続いている中で兄がいるのに何の功績もないドルゴンが即位できるはずがありません。
アバハイの息子アジゲ、ドルゴン、ドドは三人ともベイレになり四大ベイレに継ぐ地位を与えられました。ヌルハチが持っていた正黄旗、鑲黄旗の軍団はアジゲ・ドルゴン・ドドが相続しました。正黄旗、鑲黄旗のもとには旧ウラ部の者たちやヌルハチと縁戚関係のある有力者が所属しています。後金最強の二つの軍団がアバハイの元に残されるわけです。
生前のアバハイは政治や軍事に口出しするほど影響力のあった妃です。派閥工作にも熱心でした。そのせいでヌルハチの怒りをかうこともありました。
ウラ部はかつてヌルハチのマンジュに匹敵する勢力を誇った部族です。最後まで抵抗して多くが犠牲になったイェヘ部(ホンタイジの母の実家)と違い、ウラ部はわりと勢力が残ったままヌルハチに降伏しました。大清帝国にウラナラの皇后・妃が多いのはそのためです。アバハイの父親、叔父は滅びましたが弟のアブタイは後金の大臣をつとめています。
アバハイがかつてのウラ部や親しい者をまとめ、アジゲやドルゴンを王位に就かせようとすればせっかくまとまった後金がまた分裂するかもしれません。
ヌルハチはアバハイなしで生きることはできませんでしたが。自分の死後アバハイの存在は危険だと思ったのかもしれません。
やはり遺言はあったのでしょう。
仮に遺言がなかったとしてもアバハイの死はベイレたちの総意なのです。
テレビドラマ
孝荘秘史 2003年、中国 演:斯琴高娃
太祖秘史 2005年、中国 演:程莉莎
明末風雲 2005年、中国 演:周躍芳
大清風雲 2005年、中国 演:陶慧敏
皇后の記 2015年、中国 演:恵英紅
孤高の皇妃 2017年、中国 演:陳欣予
王家の愛 2018年、中国、演:宗峰岩
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