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南北朝

宋 文帝・劉義隆|全盛期からの北伐失敗と悲劇の最後

劉義隆(文帝)は劉宋(南朝宋)の皇帝。父・劉裕が築いた宋を継ぎ、北魏との戦いや内政改革に尽力。しかし晩年は北伐に失敗。遠征に反対する皇太子と険悪になり、暗殺されてしまいました。栄光と悲劇の文帝 劉義隆の生涯を詳しく紹介します。
ドラマ紹介

風起花抄(ふうきかしょう)ドラマキャスト登場人物紹介

中国ドラマ「風起花抄(読み方:ふうきかしょう)宮廷に咲く瑠璃色の恋」の紹介記事です。唐の貞観11年(西暦637年)。衣装製作の名人安氏は弟子の卓錦娘に陥れられ投獄されました。安氏の娘で当時幼かった瑠璃は宮中の孫徳成に預けられました。11年後...
隋唐の臣下・人々

裴行倹・武則天の皇后即位に反対して左遷された将軍

裴行倹(はい・こうけん)は唐の武将。高宗に仕えました。裴行倹は高宗が武則天を皇后にしようとすると反対。西域に左遷されました。人材採用でも有能な人材を採用して功績をあげています。西域で突厥が反乱を起こすと鎮圧に貢献。功績が認められ長安で暮らし...
隋唐の公主

昇平公主・唐代宗に可愛がられ夫婦喧嘩が歴史に残った皇女

昇平公主(しょうへいこうしゅ)は唐の公主(皇帝の娘)。9代皇帝・代宗の娘。10代皇帝・徳宗の妹。父や兄から可愛がられた公主でした。夫の郭曖(かく・あい)は、安史の乱で活躍した郭子儀(かくしぎ)の息子。昇平公主と郭曖は夫婦喧嘩した話が記録に残...
他の国や民族

泥靡・狂王と呼ばれた烏孫の昆弥(王)

泥靡(でいび)は紀元前1世紀ごろの烏孫(うそん)の昆弥(王)。「狂王」としても知られます。烏孫の昆弥だった軍須靡(ぐんしゅび)と匈奴出身の左夫人の間に生まれてた子供です。軍須靡の死後。泥靡が成人するまでという条件で翁歸靡(おうきび)が昆弥に...
過去作品

中国ドラマ「大唐流流」51・52・53・54話あらすじとネタバレ

中国ドラマ「大唐流流~宮廷を支えた若き女官~」のあらすじとネタバレ です。7世紀の唐。太子と梁王の挙兵は失敗。二人は投獄されました。皇帝は陸盈盈に対して梁王の妻ではなく、どこにでも去るがいいと言い渡します。やがて、顔妃は周王を太子にするため...
ドラマ紹介

中国ドラマ「万華楼(ばんかろう)金糸が紡ぐ運命の恋 」登場人物紹介

中国ドラマ「万華楼~金糸が紡ぐ運命の恋~ 」の紹介記事です。万華楼の読み方は”ばんかろう”です。”まんげろう”ではありません。8世紀末の唐。代宗皇帝の治世。唐が安史の乱の混乱からようやく立ち直っていたころ。シルクロードの中継地点にある銀城と...
高麗の国王

高麗 顕宗・運命に翻弄されて即位して契丹との戦いを生き残った王

高麗の顕宗(けんそう)は第8代国王。両親は王族でしたが周囲から認められない関係でした。不義密通の子と疎まれ少年時代は恵まれない環境で育ちました。王になるはずのない立場でしたが。康兆(カン・ジョ)のクーデターで王になりました。でも重臣たちに担...
隋唐の皇帝・皇子

武則天・中華王朝唯一の女帝は皇帝になって何をした?

武則天(則天武后)は中国史上唯一の女帝。中国史上に残る印象的な人物なのは間違いありません。武則天は長い間、中国三大悪女の一人ともいわれ。ずっと悪女のイメージがついてていました。ところが第二次世界大戦後。中国では武則天は好意的に評価されました...
隋唐の皇后・側室

武太后(武則天)が権力を握って皇帝になるまでのいきさつ

武則天は中華王朝史上ただ一人の女帝です。則天武后(武則天)は14歳のとき太宗 李世民の後宮に入宮。太宗の死後、高宗の側室になり。他の妃嬪や皇后を追い落として自分が皇后になりました。武則天を皇后にするのは高宗の意思も強く働きましたが。武則天が...
隋唐の皇后・側室

則天武后(武則天)は唐高宗を操り国を動かした

則天武后(武則天)は中国史上唯一の女帝。中国三大悪女の一人ともいわれます則天武后(武則天)は14歳のとき太宗 李世民の後宮に入宮。「武媚」の名を与えられましたが、寵愛は受けていません。太宗の死後、武媚は他の妃嬪とともに寺に入れられました。と...
隋唐の皇后・側室

武則天(武媚娘)が 太宗の後宮に入って高宗の皇后になるまでの道のり

武則天は中国史上唯一の女帝。武媚娘(ぶ・びじょう)、武媚(ぶ・び)ともよばれます。唐の第2代皇帝・太宗 李世民の後宮に入りましたが、太宗の後宮では寵愛を受けていません。ところが皇太子の李治と親密になり。太宗の死後は一時的に寺に入ったようです...
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