韓国時代劇「奇皇后」に登場する「ヨンチョル」は元の丞相エル・テムルをモデルにしています。
エル・テムルは皇帝をしのぐ力を持ち、元を意のままに操っていました。
史実のエル・テムルはどんな人物だったのか紹介します。
ヨンチョルのモデル:エル・テムルの史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1333年
名前:El-Temür、燕鉄木児(エル・テムル)
出身国:大元帝国
父:チョンウル
子供:タンギシ、タラカイ、ダナシリ
モンゴル帝国7代皇帝カイシャン~15代トゴン・テムルの時代。仕えた皇帝の数は多いですが短命な皇帝が多かったためです。
高麗王朝の末期。
日本では鎌倉~室町時代の人になります。
もともとはモンゴル帝国に征服されたたキプチャク族長の家柄。祖父トクトガは4代皇帝モンケ5代皇帝クビライやそのに従っていました。
キプチャク族はトルコからウクライナ、カザフスタンにかけて住んでいた遊牧民族。大元帝国ではキプチャク軍閥とよばれる勢力を作っていました。
父チョンウルも、7代皇帝カイシャンに仕えました。
エル・テムルは若い頃からカイシャンに仕えました。
10代皇帝・泰定帝イェスン・テムルのとき僉枢密院事となり、大きな力を得ました。
元の権力を手にする
1328年。泰定帝イェスン・テムルが上都で死去しました。このとき、エル・テムルはキプチャク軍閥を率いて大都を守っていました。
エル・テムルはカイシャンの遺児を即位させようと反乱を起こしました。エル・テムルは大都にいる部隊を味方につけ、カイシャンの次男トク・テムルを大都に迎えました。
トク・テムルは兄のコシラを呼んで即位させようとしました。エル・テムルが説得してトク・テムルを皇帝に即位させました。
エル・テムルは太平王の称号を与えられトク・テムルを即位させた功績で権力を独占しました。
上都では将軍ダウラト・シャーがイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させました。元は分裂して内乱状態になります。エル・テムルは大都に攻めてきたアリギバ軍を撃退、アリギバとダウラト・シャーを降伏させました。
ところが、コシラが旧都カラコルムで挙兵。大ハーン(皇帝)の座を要求しました。
1329年4月。エル・テムルは玉璽を持ってコシラに会いに行きます。コシラを皇帝、トク・テムルを皇太子にすることで決着しました。
ところが8月にコシラが休止します。力を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したともいわれます。トク・テムルは再び大ハーンになりました。コシラの側近たちは追放や処分されました。
皇帝はお飾りになり、エル・テムルは絶大な権力を手にしました。
イェスン・テムルの妻を自分の妻にしました。
トク・テムルの長男エル・テグスを自宅で養育しました。
コシラの長男トゴン・テムルは高麗に追放しました。その後、広西(中国南部)に流罪になります。この追放されたトゴン・テムルが「奇皇后」のタファンのモデル。ドラマも高麗に追放されるところから始まります。
1332年。トク・テムルが29歳で死去。遺言でコシラの子を跡継ぎにするように言い残しました。エル・テムルはエル・テグスを次の皇帝にしようと考えていました。
トク・テムルの妃ブダシリは夫の遺言を尊重してコシラの子を跡継ぎに主張しました。
トク・テムルの次男イリンジバルを即位させました。イリンジバルはまだ7歳でした。ところがイリンジバルが即位して43日後に死亡。
エル・テムルはエル・テグスを皇帝にしようと提案しましたが、エル・テグスはまだ幼かったので反対。
エル・テグスは仕方なく、広西に流罪にしていたトゴン・テムルを呼び戻しました。
1333年1月。トゴン・テムルが大都に戻ると、エル・テグスは出迎えました。エル・テグスが話しかけてもトゴン・テムルは黙ったままだったといいます。
エル・テグスはトゴン・テムルが思い通りにならないと考え、即位を先延ばしにしました。
しかし4月。エル・テムルは死去しました。その後、トゴン・テムルが即位しました。
エルテムルの地位は弟のサトン、息子のタンキシが左丞相になりました。また娘のダナシリがトゴン・テムルの妃になりました。
エル・テムルの一族の繁栄は続くかに思えました。右丞相バヤン将軍がしだいに力を持つようになります。焦ったタンキシは反乱を起こしますが、バヤンに鎮圧され、エル・テムルの一族は処刑されてしまいます。
エル・テムルによって作られたキプチャク族の権力は、エル・テムルの死によって休息に崩壊したのです。
テレビドラマ
奇皇后 MBC 2013年 演:チョン・グクファン
ドラマの奇皇后では、タファンが即位したあともヨンチョルが長い間丞相としてとどまり権力争いを行います。
歴史上はエル・テムルとトゴン・テムルが会って4ヶ月でエル・テムルが死亡したため。二人の争いは長くは続きませんでした。
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