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福普 郭絡羅(ゴロロ)氏 (八皇子 胤禩の正室)は嫌われ者?

大清 1.6 清の福普・夫人・女達

福普 郭絡羅(ゴロロ)氏は清朝の第4代皇帝・康煕帝の八皇子・胤禩の正妻。

郭絡羅(ゴロロ)氏は清朝の満洲貴族出身。

美人ですが気の強い女性だったようです。

康煕帝時代の末期。後継者争いが激しくなりました。

八皇子・胤禩(いんい)は皇太子になろうと裏工作をしますが。最終的に康煕帝の怒りをかって後継者からは外されます。

雍正帝時代になっても胤禩は雍正帝とうまくいきません。

郭絡羅氏も、康煕帝や雍正帝からの評判はよくありません。むしろ嫌われているといってもいいくらいです。

史実の福普 郭絡羅氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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福普 郭絡羅氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1680年代
没年月日:1726年

姓:郭絡羅(ゴロロ)氏
地位:福普 
民族:満洲人
父:和碩額附 明尚
母:愛新覚羅氏
夫:胤禩(いんい)

子供:なし

清王朝の第4代皇帝・康煕帝~雍正帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

父は 和碩額附 明尚。姓は郭絡羅(ゴロロ)

母は 安親王 岳楽(ヨロ)の娘。

母が早くに亡くなったため、郭絡羅家を出て母の実家。つまり母方の祖父・安親王の家で育てられました。安親王はヌルハチの孫です。

祖父の妻・赫舍里(へシェリ)氏は重臣のソニンの娘。康熙帝の正室・孝誠仁皇后の叔母になります。
祖父・安親王が亡くなった後も安親王府で暮らしました。

八皇子・胤禩と結婚後の生活

康煕帝の八皇子・胤禩(いんい)との結婚が決まりました。婚姻の宴は安親王府で行われました。皇子が妻の実家に行って宴会をしました。これは他の康熙帝の皇子とは待遇が違います。安親王の家はそれだけ格式が高かったのです。

1698年(康熙37年)。胤禩は和碩貝勒(ベイレ)になりました。胤禩と郭絡羅氏は正式に結婚しました。

結婚して最初の数年は、郭絡羅氏は胤禩と一緒に紫禁城で暮らしました。やがて八貝勒府(第八皇子の屋敷)が完成。新居に引越しました。

八貝勒府は四貝勒府( 胤禛の屋敷、後の雍親王府)の隣に建っていました。

郭絡羅氏は八貝勒府のすべてを仕切っていました。郭絡羅氏は非常に厳しい人だったようです。使用人からも恐れられていました。

郭絡羅氏と胤禩は仲は悪くなかったようですが二人の間に子供はいません。

胤禩には郭絡羅氏の他に側福普が一人。他の側室が3人いました。

胤禩に側室の生んだ子が一男一女いました。他の康煕帝の皇子たちと比べると少ないです。

胤禩の子供が少ないのは皇位争いでは不利でした。子孫を残すのも皇帝の役目のひとつだからです。

胤禩の子供の少なさは郭絡羅氏の評判の悪さにつながってしまいます。跡継ぎが生まれないと妻が批判されるのはどの時代も同じです。他の兄弟が子沢山だと比べられてよけいに批判されてしまいます。

子供の欲しかった郭絡羅氏は胤禩に言って何焯の娘を養女にしました。何焯は胤禩の部下の将軍です。

私的な縁組は当時の清朝の皇族の習慣には違反していました。これは後に処分される理由になります。

後継者争いとかかわり

康熙帝の晩年、後継者をめぐって争いになりました。

康熙47年(1708年)皇太子・胤礽(いんじょう)が廃位。

郭絡羅氏の母方の一族と郭絡羅氏の夫・胤禩は後継者争いに積極的に関わりました。郭絡羅氏のおじの景熙が最初に皇太子を訴え、皇太子が廃位されるきっかけになりました。

康熙47年(1708年)康煕帝は「胤禩は妻に服従している。妻の嫉妬のために子供が生まれないのだ」と周囲の者に語ったと言います。しかしこの時期。胤禩には一男一女がいました。子供が一人もいないわけではありません。でも他の皇子たちよりは少なかったのです。後継者にするには不安があると思っていたのでしょう。

康煕帝は胤禩が胤礽を陥れたと考え、後継者に選ばれませんでした。

皇太子を廃位したあと。多くの大臣たちは八皇子・胤禩を新しい皇太子に支持しました。このとき康煕帝は胤禩の母の身分が低いから、とか妻の嫉妬のために子供が生まれないとか、真の謀反人は胤礽ではなく胤禩だとか。いろいろ理由を言いました。

康煕帝が胤禩を皇太子にしない理由は大臣や皇子たちをとりこんで大きな派閥を作っていたから。朝廷内では皇帝を脅かすほどの勢力になりつつありました。

かつて皇太子・胤礽が大臣たちに囲まれ朝廷内で大きな派閥を作りいい気になっていました。それで胤礽を廃したのですが。胤禩が第二の胤礽になってしまっては意味がありません。

それが康熙帝の真意かどうかは別に、どんな理由をつけてでも胤禩を皇太子にするわけにはいかない。と思ったのでしょう。

だから康熙帝の郭絡羅氏への批判がどこまで本心だったかはわかりません。

逆に目立った派閥を作らず、ひたすら康煕帝に忠実だったのが四皇子・胤禛です。

康煕帝の死後。5代皇帝になったのは 四皇子・胤禛(雍正帝)でした。

雍正帝の時代

郭絡羅氏の夫・允禩(胤禩から名前を変更)は親王になりました。十三皇子・胤祥とともに皇子の中では一番の出世です。ところが雍正帝は高い地位の人にはそれにふさわしい責任と成果を求めます。

郭絡羅氏の母方の家族は親王福普になった郭絡羅氏をお祝いに来ました。

ところが郭絡羅氏は「何が嬉しいの?首がいつとぶかわからないのよ」と言いました。

允禩は雍正帝から様々な任務を与えられました。任務が十分にこなせないと容赦のない叱りを受けます。

また雍正帝は郭絡羅氏にも様々な指示を出しました。郭絡羅氏は皇后烏拉那拉氏に助けてもらいました。

郭絡羅氏の屋敷(親王府)の隣には雍親王府(雍正帝が皇子時代に住んでいた屋敷)があります。雍親王府は離宮扱いになり「雍和宮」に昇格しました。

雍正2年(1724年)5月。さすがに離宮の隣に住むのは気まずいと思ったのでしょうか。允禩は転居を申請。雍正帝は、允禩に空いていた安親王府を与えました。郭絡羅氏にとっては結婚するまで住んでいた場所で暮らすことになりました。

 

郭絡羅氏 の 最期

雍正4年(1726年)正月。雍正帝は過去の罪を理由に、郭絡羅氏から「福普」の称号を剥奪。家族のもとに送り返して監視させ、外との連絡を取るのを禁止しました。

雍正帝は允禩には行いを改めるように注意。さらに「妻を追放されたからといって恨んで、仮病を使って仕事を休んだら妻の命はない。息子も重い罪になるだろう」と脅しました。

このとき雍正帝は郭絡羅氏を「狐媚」と表現しています。中国でも狐は悪賢い生き物と思われていましたが、美くしくて魅力的な意味もあります。美人だけれども悪知恵が働くという意味なのでしょう。

允禩と郭絡羅氏は引き離されたら恨みに思うくらいには仲が良かった。と考えられます。

楊珍則が康煕帝時代に「允禩は妻のせいで子供ができない」と言っていたのを雍正帝に提出。雍正帝は「允禩は安郡王家(安親王家)の悪い習慣に汚染されたのだ」と批判しました。

允禩に仕える侍女は、雍正帝に謝罪するように進言しました。でも允禩は「私は夫だ。妻のためにどうやって謝罪すればいいのだ」と怒ったと言います。兄に謝罪してまで妻を取り戻そうという気はなかったようです。

その年。八皇子・允禩、九皇子・允禟は皇族の地位を剥奪され庶人に落とされました。

郭絡羅氏の地位も庶人に落とされました。郭絡羅氏の罪は「強悍」、「不守婦道」とされ。性格が荒々しくて強情。当時の女性に求められるしきたりや習慣を守らない。といったところでしょうか。

雍正4年(1726年)。郭絡羅氏は死去。

「永憲錄」という乾隆帝時代に書かれた本には雍正帝の命令で郭絡羅氏が自害させられ、庶人の格式で葬られた。と書かれています。

永憲錄は康煕帝~乾隆帝時代の役人が書いた本。正式な歴史書ではありませんが。一応そういう話もあったということです。

郭絡羅氏はどうやら康煕帝や雍正帝からは嫌われていたようですね。本人も気が強くでわがままなところはあったのかも知れませんが。皇子たちの後継者争いが激しかった時期ですし、その中でも八皇子・胤禩は派閥作りに熱心で皇太子の座を狙っていたので康煕帝や雍正帝にとっては危険な存在に思えたでしょう。それだけに余計に風当たりも強かったのかも知れません。

テレビドラマの郭絡羅(ゴロロ)氏

宮(パレス) 2011年、中国 演:楊冪  役名:洛晴川

宮廷女官若曦 2011年、中国 演:石筱群  役名:郭絡羅·明慧

 

コメント

  1. mei より:

    こんにちは、知りたかった人を紹介していただきありがとうございます!
    細かいところまで知れて嬉しいです!

    • Fumiya より:

      ありがとうございます。
      喜んでいただいて嬉しいです。
      他の案件は調査中ですのでもう少しお待ち下さい。

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