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許浚(ホ・ジュン)は東医宝鑑を完成させた朝鮮三大名医

朝鮮の人々 6 李氏朝鮮の人々

許浚(ホ・ジュン)は李氏朝鮮時代の医者。

朝鮮三大名医の一人です。

彼が執筆した「東医宝鑑」は朝鮮一の医学書として評判が高く清や日本でも発行されました。

ドラマにもなって知名度も上がりました。

史実の許浚はどんな人物だったのか紹介します。

 

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許浚(ホ・ジュン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1539年
没年月日:1615年10月9日
享年:77(数え歳)

名前:許浚(ホ・ジュン)
父:許論(ホ・ロン)
母:霊光金氏
妻:安東金氏

子供:許謙(ホ・ギョム)

彼が活躍したのは主に朝鮮王朝(李氏朝鮮)の14代宣祖の時代です。

日本では戦国時代の人になります。

おいたち

1539年。龍川府使の許碖(ホ・ロン)の庶子として産まれました。

1543年、1546年説もありましたが。現在は1539年説が主流になっています。

出身地は諸説あってよくわかっていません。

現在の韓国では京畿道 長湍郡(京畿道 坡州市)で産まれたとの説が有力です。
幼少期は平安龍川や京畿道陽川で暮らしたとされ、京畿道坡州と京畿道漣川でも暮らしたと言われます。

父・許論(ホ・ロン)と祖父・許琨はともに武官でした。

許論は龍川府使を務めていました。

ドラマなどでは若い頃にユ・ウィテ(柳義泰)に医術を学んだとされています。しかし、柳義泰は19代粛宗時代の人物といわれます。

許浚と柳義泰は出会ったことすらありません。

1569年(宣祖3年)。許浚は副提学(正三品)柳希春の夫人の治療のため漢城(ソウル)に行き、夫人の病を治しました。感心した柳希春(ユ・ヒチュン)は許浚を 吏曹判書(正ニ品)洪曇(ホン・ダム)に紹介。柳希春と洪曇の推薦で内医院に入りました。

民間伝承やそれをもとにした小説・ドラマでは科挙の医科に合格して内医院に入ったことになっています。でも当時の合格者名簿には許浚の名はありません。実際には推薦で入ったようです。

 

宮廷医官になり王族の治療で功績をあげる

1570年には柳希春の病気も治し、漢城で名前が知られるようになりました。

1572年(宣祖5年)。内医院で従四品でした。

1573年(宣祖6年)には正三品になりました。

科挙で合格はしていませんが医術の腕は確かだったようです。

1578年(宣祖11年)。許浚は内医院添政を務めていた時、当時新しく出版された「新刊宝珠洞人遺血鍼灸図経」を王から下賜されました。

1587年(宣祖20年)。病気になった宣祖を治療して許浚と内医院の関係者は表彰されました。このとき、許浚は楊禮壽(ヤン・イェス)、安徳秀(アン・ドクス)と一緒に褒美として鹿革を受け取りました。

その後、恭嬪金氏(コンビン・キムシ)の弟が口眼臥蛇になったので治療を行って全快させました。その功績で功堂上官(正3品以上)の地位を与えられました。

1590年(宣祖23年)。信城君(仁嬪金氏の息子)の病気を治しました。

ところが司憲府、司諫院、弘文館など三司と義禁府が一斉に「王子を治療したのは医官として当然であり、たとえ功があったとしても医官を堂上にすべきではありません」と弾劾を起こしましたが、宣祖は聞きませんでした。

1592年(宣祖25年)。壬辰戦争(朝鮮出兵・文禄の役)が起きると宣祖の逃避行に同行。義州(現在の北朝鮮と中国の境)まで行きました。後に逃避期間中に王を支えたことが功臣として評価されます。

1596年(宣祖29年)。王世子の光海君の病気を治療。正ニ品に昇進しました。、金應鐸(キム·ウンタク)、鄭礼男(チョン·イェナム)もそれぞれ昇進しました。

すると三司の役人たちが弾劾を起こし医官たちの昇進を取り消すよう要請しましたが、宣祖は「功労のある者たちだ」と言って聞着ませんでした。

1595年(宣祖28年)。宣祖の鍼治療を行いました。内医院のキム·ウンナム、ホンジン、オ·オクリョンなどが参加した。

医学書の編纂を始める

1596年(宣祖29年)。宣祖は医学書の編纂を命令。

この編纂を行ったのが、世子・光海君の治療の功績を認められた許浚の他、御医の楊礼寿(ヤン·イェス)・李命源(イ·ミョンウォン)・鄭碏(チョン・ジャク)・金応鐸(キム·ウンテク)・鄭礼男(チョン·イェナム)らでした。

ところがまもなく1597年(宣祖30年)。丁酉戦争(慶長の役)が始まったため、医官が散り散りになってしまい編纂作業は中止になりました。

これに対し、宣祖が許浚を再び呼んで許浚が責任をもって医学書を作れと命令。王宮にある蔵書500冊を渡して参考にさせました。

1600年(宣祖33年)。内医院で最高の地位にあった楊禮壽が死亡。許浚が内医院の最高位につきました。

1604年(宣祖37年)。忠勤貞亮扈聖功臣三等の表彰をうけました。

1606年(宣祖39年)。正一品 楊平府院君になりましたが、重臣たちから反対したので従一品楊平郡(陽平君)に降格になりました。

 

国王の死の責任を取らされ流罪

1607年。宣祖が重病なり治りませんでした。このとき朝廷では「許浚が薬を誤って使ったからだ」と許浚を処罰する意見が強かったのですが、宣祖が「罰を与えるよりは治療させるべき」と臣下の意見を却下しました。

1608年。宣祖の病状が悪化して死亡しました。

許浚は重臣たちから責任を追求され、地方に流刑になりました。光海君は許浚を早く復帰させようとしましたが三司の反対で失敗しました。

このような状態でも許浚は1596年から行っていた医学書の執筆を続けました。

再び内医院に復帰

1609年(光海君1年)。光海君の釈放命令がでて内医院に復帰しました。許浚は医学書の編纂と後身の育成を行いました。

1610年。「東医宝鑑」を完成させました。当時の医学知識を集めた医学辞典です。

1615年。死去。輔国崇禄大夫(正一品相当)の位を与えられました。

東医宝鑑とは

東医宝鑑は朝鮮だけでなく清や日本でも発行されるほど評価の高いものでした。当時の朝鮮では明の医学が輸入されていました。

薬も明からの輸入に頼っていたので朝鮮の環境や体質には会わない部分もありました。

日本との戦争もあって薬の輸入が難しくなると。古くからある朝鮮の薬を見直そうと宣祖の命令で朝鮮古来の薬の復活が求められました。

1596年。内医院で許浚・楊礼寿・李命源・鄭碏・金応鐸・鄭礼男らが医学書の編纂にとりかかりましたが、日本との戦争などで中断。その後、許浚が生涯のテーマとして執筆を続け14年後の1610年に完成しました。

内容的には明の医学を基本としながらも朝鮮古来の医学も取り込んだ内容です。理屈よりも実用性を重視した医学書です。

テレビドラマ

東医宝鑑 MBC 1991年 演:ソ・インソク
許浚・宮廷医官への道 MBC 1999年 演:チョン・グァンリョル
王の女 SBS、2003年 演:チェ・ビョンハク
香壇前 MBC 2007年 演:イム・ヒョンシク
許浚・伝説の心医 MBC 2013年 演:キム・ジュヒョク
星から来た君 SBS、2013年 演:パク・ヨンギュ
魔女宝鑑 JTBC 2016年 演:ユン・シユン、キム・ガプス
名不虚伝  tvN 2017年 演:オム・ヒョソプ

 

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コメント

  1. BIG-BIRD より:

    早速の回答有難うございます。
    一点疑問に思ったのは、彼の誕生は、内医院の記録には中宗34年(1538年)生まれとあるとの説明ですが、1539年の誤りではありませんか。おいたちの説明でも、1539年と書かれているので誤りだと思うのですが。

  2. BIG-BIRD より:

    2019年末から2020年にかけて「ホ・ジュン~伝説の心医」を見ました。心を洗ってもらえるような感動的なドラマでした。たまたま友人に小説もあるよと教えてもらい図書館で借りてきて読み始めました。ドラマでは少年時代から始まったのですが、小説では少年時代は全く書かれていませんし、内医院に入門した時点で、ユドジは妻帯者でありジュンにも子供が二人いてドラマとは全く違っているので驚いています。
    加えてこの「ホ・ジュンの史実」を読んで更に驚いています。ジュンは、内医院には推薦で入学したとのこと、科挙の雑科を首席で合格したというのは全くのフィクションだったのかとびっくりです。そして、二代も続く武官の家に生まれた彼がどうやって鍼の技術を会得したのか不思議に思います。庶子ということで武官への道を諦めて医術の方に進路を決めたのでしょうか。それは本人に聞かないとわからないことですね。

    ところで質問と要望があります。
    質問
    朝鮮王朝実録【改訂版】291~293ページには、1546年、金浦で武人の家の子として生まれ・・・1615年11月に69歳で世を去ったという記事を見ました。1539年生まれの根拠はあるのでしょうか。亡くなった年がはっきりしていて逆算すると1539年説になるのでしょうか。
    要望
    李朝時代の陸路に関して知りたいです。日本のような東海道・中山道というような街道はあったのでしょうか。山陰から漢城へ陸路で向かうとすれば何街道なのでしょうか。海上交通のみで陸路は利用しなかったのでしょうか。

    • フミヤ Fumiya より:

      BIG-BIRDさんこんにちは。
      許浚がどうやって医術を身に着けたのかは謎ですね。李氏朝鮮では武官は文官よりも地位が低くさらに庶子ともなると文官で出世するのは絶望的だと思います。朝鮮では医師は文官以下、庶民以上の地位だったので、選択肢のひとつに医師があったのかもしれません。だれかに弟子入りしたか、親戚や母方に医師がいたのかもしれませんね。

      確かに朝鮮王朝実録をもとにすると1546年になります。
      内医院の記録には中宗34年(1539年)産まれとあるようで韓国ではこちらの説が主流なので採用しました。
      朝鮮の陸路についてのご質問ですが、残念ながらわかりません。調べておきますね。

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