「花たちの戦い・宮廷残酷史」や「馬医」に登場するイ・ヒョンイクは実在の人物。
仁祖の息子・昭顕世子は清から帰国してわずか2ヶ月後に死亡しましたが。イ・ヒョンイクは世子の死に関わっているといわれます。
貴人趙氏に推薦され医官となり仁祖の治療にも当たった人物。それだけに様々な噂が残っています。
史実の李馨益(イ・ヒョンイク)どんな人物だったのか紹介します。
李馨益(イ・ヒョンイク)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1645年5月21日
名前:李馨益(イ・ヒョンイク)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に16代仁祖~18代顯宗時代の人です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
生年没年はわかりません。
朝鮮 忠清道 禮山郡(現大韓民国 忠淸南道 禮山郡)で生まれたといわれます。
針の治療で名声のあった医者だといいます。
1633年(仁祖11年)。鍼術の名人ということで宮廷に呼び出されました。
イ・ヒョンイクは昭容趙氏の推薦で内医院に入りました。昭容趙氏は貴人趙氏といった方が有名かもしれません。仁祖の寵愛を一身に受ける側室でした。
その昭容趙氏の推薦とあっては受け入れざるを得なかったのでしょう。
燔鍼と呼ばれる方法で治療したといいます。どのような方法かは分かっていませんが、針を火で熱して治療するものだったといわれます。
1645年(仁祖23年)。清から帰ってきた昭顕世子が体調を崩したので、イ・ヒョンイクが診察にあたりました。
イ・ヒョンイクの治療を受けて3日後の5月21日。昭顕世子は息をひきとりました。
当時の記録にも、昭顕世子の遺体は黒く変色し、目や鼻から血が出て、顔色がわからないくらいだった。まるで薬物で死んだようだったと書かれています。
昭顕世子が清からもどってわずか2ヶ月後の死でした。世子の妻・嬪宮姜氏は原因究明を訴えます。役人に不正を調べる司憲府(サホンブ)や司諌院(サガンウォン)も動き出しました。嬪宮姜氏と司憲府はイ・ヒョンイクに疑いをもちました。
それもそのはず。イ・ヒョンイクは昭顕世子夫妻と中の悪かった貴人趙氏の推薦で医官になった人物。しかも貴人趙氏の実家に出入りし趙氏の母の愛人だとか密会してるという噂までありました。
イ・ヒョンイクは処分されるかと思われました。
ところが仁祖がイ・ヒョンイクの取り調べを中止させました。国王みずからイ・ヒョンイクをかばったのです。仁祖は貴人趙氏を寵愛していたので貴人趙氏に頼まれたのかもしれません。あるいはイ・ヒョンイクの罪が明らかになると仁祖自身が困るからなのかもしれません。
仁祖が行きている間は罪に問われませんでした。そればかりか県令に任命されています。
仁祖が死亡し孝宗の時代になると、再び責任追及が始まりました。このときはかばってくれるものがいません。イ・ヒョンイクは流刑になりました。
ところが大王大妃(荘烈大妃と思われます)が病となり危篤状態になったのでイ・ヒョンイクが呼び戻され治療を行いました。大王大妃は命をとりとめました。その功績でイ・ヒョンイクは放免されます。孝宗と西人派は昭顕世子の死亡の件については責任追及をしませんでした。
孝宗が死亡し顕宗が即位すると官僚の間から弾劾が起こりました。しかし町中で何者かに殺害されたということです。
なにかと悪い噂のあるイ・ヒョンイク。その一方で、針の腕は確かだったらしく、仁祖の治療を行ったり、大妃の治療も行なったといわれます。
問題の昭顕世子の死については。当時の記録でははっきりとイ・ヒョンイクが毒殺したとは書いていません。しかし貴人趙氏と昭顕世子夫妻の仲が悪かったこと。昭顕世子の氏の様子が異常だったことが並べて書かれており、当時から疑いを持たれていたことがわかります。
その後の昭顕世子一家のひどい扱いもあわせると。何者かによって昭顕世子を亡き者にしようとした意思が働いたのは間違いなく。イ・ヒョンイクが関わっていた可能性は高いといえます。
テレビドラマ
馬医 MBC、2012年 演:チョ・ドクヒョン
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC 2013 演:ソン・ビョンホ
華政 2015年 MBC 演:イ・ビョンウク
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