密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)は李氏朝鮮王朝の王族です。昭顕世子の子孫として一時は外交使節として活躍しました。英祖の時代に発生した「李麟佐の乱」で反乱軍に「王」として擁立され最終的には処刑されてしまいます。
史実の密豊君はどんな人物だったのでしょうか?この記事では、密豊君の家計や王族としての名誉回復、外交使節としての活動、そして反乱に巻き込まれた経緯を詳しく解説します。
密豊君(ミルプングン)イ・タンの史実
どんな人?
密豊君の基本的なプロフィールは以下の通りです。
- 名前:李坦(イ・タン)
- 称号:密豊君(ミルプングン)
- 生年月日:1698年(粛宗24年)
- 没年月日:1728年(英祖4年)
彼が生きた時代は、朝鮮王朝の主に19代粛宗(スクチョン)から21代英祖にかけてです。日本では江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗の時代にあたります。
家族構成
密豊君の家族構成は以下の通りです。
- 父:臨昌君(イムチャングン)
- 母:凝川郡夫人(ウンチョングンブイン)咸陽朴氏(ハミャンパクシ)
- 妻:郡夫人 淸風金氏(チョンプンキムシ)
- 側室:郡夫人 林川趙氏(イムチョンジョシ)
- 子供:
- 長男:觀錫(クァンソク)
- 次男:商原君(サンウォングン)
(粛宗の息子・延齡君(ヨンリョングン、イ・フォン)の養子となったものの、父が李麟佐の乱に参加したため処刑) - 三男:恒錫(ハンソク)
- 四男:謙錫(キョムソク)
- 五男:益錫(イクソク)
ミルプングンの家系図

密豊君(ミルプングン)の家系図
密豊君(ミルプングン)イ・タンの生涯
生い立ち
密豊君は1698年(粛宗24年)に生まれました。父は臨昌君であり、密豊君は昭顕世子と嬪宮姜氏(ピングンカンシ)のひ孫にあたります。
密豊君は昭顕世子の子孫
昭顕世子は16代国王・仁祖(インジョ)の長男でした。清で人質生活を送った後、朝鮮に戻りましたが帰国直後に謎の死を遂げ、暗殺説もあります。
→昭顕世子については 昭顕世子:清の人質生活と謎の最後。をご覧ください。
昭顕世子の死後、その妻である嬪宮姜氏は「仁祖を毒殺しようとした」という罪を着せられ処刑されました。
→嬪宮姜氏については 嬪宮姜氏昭顕世子の妻の悲劇をご覧ください。
昭顕世子と嬪宮姜氏の間に生まれた息子三人も全員が流罪に処されます。長男と次男は流刑先で死亡しましたが、三男の慶安君(キョンアングン)だけは生き残りました。
慶安君と密豊君の血筋
慶安君は18代国王・顕宗(ヒョンジョン)の時代に許され、王族として結婚し子も得ました。しかし、1665年に慶安君が亡くなった際、家が貧しく葬儀さえ出せないほどでした。これを気の毒に思った顕宗は、慶安君の子らのために家を建て、土地を与えました。
その慶安君の孫が、密豊君・李坦です。つまり密豊君は、本来であれば正当な王族として優遇されていてもおかしくない、由緒正しい血筋の持ち主でした。
嬪宮姜氏の名誉回復
1718年(粛宗44年)、粛宗は晩年になって嬪宮姜氏を無罪と認め、“愍懐(ミンフェ)”という称号を与えました。
密豊君は既に王族の身分を回復していましたが、祖先である姜氏の名誉回復は悲願でした。この名誉回復が実現したのは、密豊君が20歳のときです。
当時、西人派(ソインパ)や老論派(ノロンパ)は昭顕世子の一族の名誉回復に熱心でした。この時期に名誉が回復された背景には、老論の働きかけがあったとされています。
慶安君や父・臨昌君も顕宗が建てた家で暮らしました。でも粛宗の時代に土地を没収されてしまいます。原因は不明。不祥事があったのかもしれません。
外交使節としての活動
王族の身分を回復した密豊君は、外交使節として活動しています。
- 1723年(景宗3年):謝恩使(しゃおんし)として清へ渡る。
- 1726年(英祖2年):謝恩兼冬至使(とうじし)として清へ渡る。
密豊君は清に使節として行くなど、王族の一員として働いていました。景宗(キョンジョン)の時代までは、反乱を起こそうとしたり、王位継承問題に関わろうとした様子は特に見られません。
反乱に担ぎ出された密豊君(ミルプングン)イ・タン
李麟佐の乱の発生
1728年(英祖4年)、英祖に不満を持つ少論派(ソロンパ)と南人派(ナミンパ)が反乱を起こします。首謀者は、少論派の中でも特に過激な李麟佐(イ・インジャ)です。
李麟佐は、英祖の即位の正当性を否定するため、次のような虚偽の情報を流しました。
- 「英祖は粛宗の息子ではない。景宗を暗殺した」
- 「淑嬪崔氏(スクピンチェシ、英祖の生母)はムスリ(水汲みや宮中で雑用をする女性の奴婢)であり、不倫をして英祖を生んだ」
『淑嬪崔氏がムスリ』という話は現代のドラマの題材にもなりますが、これは正式な記録ではなく、李麟佐が流したフェイクニュースです。
「正当な王」として担がれる
李麟佐は、「密豊君こそが正当な王である」と主張し、彼を擁立して王にしようとしました。密豊君が昭顕世子の由緒正しい血筋であり、粛宗の時代に名誉回復を果たした王族であることが、反乱の旗頭として利用されたのです。
この反乱には、密豊君の長男・觀錫も参加しています。密豊君自身がどの程度、王座に興味を持っていたのかは定かではありません。
密豊君の最後
反乱失敗
しかし、李麟佐の乱は鎮圧されます。密豊君は捕縛され英祖のもとに送られました。
密豊君を待っていたのは賜死(しし)、すなわち毒を飲んで自ら命を断つよう命じることでした。謀反の首謀者である李麟佐が斬首(ざんしゅ)となったのに対し、密豊君が賜死となったのは彼が王族であったためです。英祖は、王族に不名誉な斬首という死に方をさせることを避けたのでしょう。ある説では自決したともいわれています。
悲劇の王族の末裔から一転して謀反者となった密豊君。彼の息子たちも処刑され、こうして細々と続いていた昭顕世子の家系は途絶えてしまいました。
後の名誉回復
密豊君の名誉は、死後136年経った1864年(高宗元年)に回復しました。この頃、朝鮮国王の権威は落ちており、高宗(コジョン)は祖先の地位を高めることで、自らの地位をも高めようとしたのです。
ドラマの密豊君
ドラマではテバクとヘチに登場しています。
どちらもドラマのクライマックスでは「李麟佐の乱」が大きな事件になりました。
「李麟佐の乱」にむけて物語が進んでいくのですが、テバクとヘチでは視点が全く違います。
「テバク」のミルプングン
SBS、2016年 演:ソ・ドンウォン
「テバク」では反乱の首謀者は李麟佐(イ・インジャ)。ドラマの中心はイ・インジャとペク・デギル(英祖の兄)です。
史実通り、イ・インジャが反乱の中心人物になって密豊君(ミルプングン)を担ぎ出します。
「テバク」の密豊君はいかにも「担がれた王族」といった感じ。野心あふれる人物ではありません。
「ヘチ」のミルプングン
SBS、2019年 演:チョン・ムンソン
ところが「ヘチ」では密豊君(ミルプングン)が反乱の中心にいます。密豊君は野心あふれる人物として描かれ、英祖が王になる前から対立しています。
歴史上の密豊君がむやみに人を殺したり、自分から進んで王になろうとした記録はありません。ドラマを面白くするための脚色です。
ヘチとテバクは同じ事件をもとにしていても描かれ方が全く違うのです。
実在の密豊君も、心のどこかには「自分が正当な王の血筋だ」という思いはあったかもしれません。いえ、たぶんあったでしょう。
自分で計画してまで王になろうとは思わなかったかもしれませんが。誰かが英祖を倒してくれるならやってもいい、くらいには思っていたかもしれません。
でもそういう血筋の人は反乱を起こしたい人たちに利用されやすいのは事実のようです。

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