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姜弘立(カン・ホンリプ)・後金に降伏した朝鮮の将軍

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

姜弘立(カン・ホンリプ)は李氏朝鮮の将軍。
カン・ホンニプともいいます。

後金と明の戦い(サルフの戦い)では朝鮮軍の司令官・都元帥(トウォンス)となって明の援軍に向かいました。

とろが味方の明軍が全滅、残った姜弘立の部隊は後金に降伏します。

その後は後金で暮らし、仁祖の時代に朝鮮にもどってくるのですが。

史実の姜弘立(カン・ホンリプ)どんな人物だったのか紹介します。

 

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姜弘立(カン・ホンリプ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1560年
没年月日:1627年9月6日

名前:姜弘立(カン・ホンリプ、カン・ホンニリプ、きょう・こうりつ)
父:姜紳
母:鄭氏
妻:黄氏

子供:姜璹、他

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖~16代仁祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

晋州姜氏は高麗の名門貴族。

祖父の姜士尚は14代 宣祖時代の右議政。
父の姜紳も右賛成の地位にある高官でした。

1589年。科挙の進士科に合格。

1597年。科挙の謁聖文科に合格。説書・検閲などを歴任。

1605年。朝貢使節(陳奏使)の書状官になって明に行きました。

1608年。輔徳になりました。

1609年。漢城府右尹になりました。

1614年。巡検使に任命されました。

1618年。晋寧君の称号が与えられました。

 

サルフの戦いに出陣

光海君から出兵の命令が出る

1618年。後金のヌルハチは明に宣戦布告。遼東を占領しました。

後金を倒すため、明は出兵を決定しました。明は10万の兵を北路軍、西路軍、南路軍、東南路に分け、4方向から後金の首都ヘトゥアラを目指しました。

明は朝鮮にも出兵を要求しました。光海君は明と後金の間で中立を保とうと考えたので出兵したくありませんでした。でも文禄・慶長の役のときに朝鮮は明に助けてもらった過去があります。重臣たちは明に助けてもらった「恩」があるので明の要求に応えて出兵すべきと主張しました。

光海君は重臣たちの意見には逆らえず、出兵を決断しました。

姜弘立が都元帥(軍団司令)に任命されました。光海君からは最悪の場合、投降してもいい。と許可を受けていたといいます。

1629年。姜弘立は1万3000の兵を従えて出兵しました。姜弘立の指揮する部隊は多くの鳥銃(火縄銃)を装備していました。もともと朝鮮軍は鉄砲の威力をあなどっていたので鉄砲隊はあまり組織していませんでした。ところが文禄・慶長の役で日本軍の鉄砲の威力を思い知った朝鮮軍は、捕獲した鉄砲を集めて鳥銃部隊を編成していました。

4月5日。姜弘立の軍団は鴨緑江を渡り大瓦洞(だいがどう)に到着。明の南路軍総兵官・劉綎(りゅう・てい)が派遣した先発隊と合流。

4月8日。朝鮮軍は劉綎の指揮する明の東南路軍と合流しました。

姜弘立はさっそく劉綎を訪問。劉綎は指揮下の兵が2万4000どころか実際には1万も出せないことをうちあけました。しかも明軍内部でも劉綎の部隊には大砲や火器がなく、朝鮮の兵力をあてにしていました。

その後、姜弘立の率いる朝鮮軍は劉綎の東南路軍とともに後金の首都・ヘトゥ・アラを目指しました。

劉綎は進軍を急ぎました。歩兵部隊が中心で装備の重い朝鮮軍は明の騎兵についていけません。姜弘立が劉綎にうったえると「それはわかるが作戦の期日が迫っている、後からついてこい」と言われ。劉綎の指揮する明軍は先に行ってしまいました。

途中で食料がなくなったので明軍と交渉、兵糧を分けてもらいました。

途中、何度か後金の部隊が出現したので戦いました。朝鮮軍が鉄砲を討つと後金の兵は雨のように弓矢で攻撃してきました。

このときの後金軍は大砲や鉄砲は装備していません。火力や兵力では明・朝鮮軍が有利でした。

ところが
4月14日。北路軍が全滅。
4月15日。西路軍が全滅。

東南路軍はまだそれを知りません。前進を続けました。

明軍の総司令・楊鎬は南路軍、東南路軍に撤退命令を出しました。

南路軍はもともと進軍が遅れていたので撤退しました。ところがすでに東南路軍は奥深く進軍していました。

アブダリ・フチャの戦いで後金の捕虜になる

ヘトゥアラの南、アブダリという場所で劉綎が率いる東南路軍とダイシャン率いる後金軍がぶつかりました。東南路軍は壊滅。劉綎は火薬に火をつけて自害しました。

そのころ、姜弘立率いる朝鮮軍は兵糧不足で進軍が遅れてたのでフチャという場所にいました。

東南路軍を破ったダイシャンはさらに進軍。金応河の指揮する朝鮮軍の左営部隊に襲いかかりました。

朝鮮軍は鉄砲で応戦。後金軍の突撃を2度阻止しましたが、後金軍の3度目の突撃の時北西の風が吹いて硝煙と砂埃がまいあがり視界が遮られたすきに後金の突撃が成功。朝鮮の左営部隊は全滅、金応河は戦死しました。右営部隊も陣をしきなおす暇もなく全滅。

ソルホ・ハダ山にいた姜弘立の中営部隊は後金軍に包囲されてしまいます。兵糧がつきて2日間ろくに食事をとっていない朝鮮軍は戦う気力もなく降伏。姜弘立は通訳を使者として派遣。次のように伝えました。

「われわれ朝鮮人はこの戦争に自ら好んできたのではない。わが朝鮮を日本が攻撃してわが領土はみな取られ、わが城郭はみな奪われたことがあった(文禄・慶長の役)。その国難を明が救ってくれた。その恩に報いるために来たのだ。我々を率いた明軍と混じっていた朝鮮兵はあなた方に殺された。わがこの営の兵はすべて朝鮮兵である。我が営には明の遊撃(指揮官)が一人とその部下がいる。我々を助けてくれるなら明の兵を引き渡そう」

それを聞いた後金の将軍・ダイシャンはホンタイジたちと相談。朝鮮の元帥・姜弘立が自らくるように要求。明兵の引き渡しを要求しました。

姜弘立は部下たちがひきとめたので代理として副官の金景端を後金軍に派遣しました。朝鮮軍は部隊内に逃げ込んでいた明兵を捕まえ後金に引き渡しました。とらわれるのを拒否した明の司令官は逃亡して崖から落ちて死亡しました。

金景端が後金軍に行くとダイシャンは歓迎して酒宴をひらきました。

こうして姜弘立が率いる5000の朝鮮軍は後金に投降しました。

10万の明軍は東路軍2万だけが生き残って帰国しました。

1620年。後金に囚われていた朝鮮の捕虜は返されました。しかし姜弘立と金景端たち10数人の朝鮮人には帰国の許可が出ませんでした。

 

この戦いは歴史上「サルフの戦い」と呼ばれる後金と明の戦争のなかで起きた戦闘。なぜサルフの戦いがおきたかはこちらを御覧ください。

・ヌルハチ(2) 後金国の建国とサルフの戦い

 

後金での生活

後金の首都・ヘトゥアラに留められた姜弘立たちはヌルハチから良い待遇で迎え入れられ後金で生活しました。

姜弘立にはヌルハチの次男ダイシャンの養女と結婚。明人の下人500人を与えられました。

朝鮮の重臣たちは光海君に姜弘立の家族を捉えるように要求しましたが、光海君は拒否しました。

その間も姜弘立は光海君と連絡を取り、後金の情報を送っていました。

 

光海君が失脚、仁祖が即位

1623年。朝鮮でクーデターが起こり光海君が失脚。仁祖が王になりました。

光海君は中立的な外交をおこなっていたので後金とも争うつもりはありませんでした。

ところが中華思想に染まった仁祖と西人派は明に従属して後金に敵対的な行動をとりました。仁祖は朝鮮国内に毛文龍が率いる明軍の駐留を認めました。

1626年。ヌルハチ死去。ホンタイジが2代目ハン(国王)になりました。

後金の第一次朝鮮出兵(丁卯戦争)

1627年。ホンタイジは敵対的な行動をとる朝鮮に出兵を決定。姜弘立は案内役として後金軍に同行することになりました。

アミン率いる後金軍はまたたく間に朝鮮の首都・漢城を占領。明軍も敗走しました。仁祖は江華島に逃げ込みました。

姜弘立は使者になって江華島に行き朝鮮朝廷と交渉を行い。和平を実現しようと努力しました。

1627年3月3日。江華島で和平が成立。「後金と朝鮮は兄弟の関係」という内容で和平案がまとまりました。

アミン率いる後金軍は撤退しました。

姜弘立はそのまま朝鮮に残りました。

ところが後金に同行していた姜弘立は裏切り者にされてしまいます。姜弘立はすべての資格を奪われます。さらに西人派の重臣たちは姜弘立の処刑を要求しました。

しかし仁祖は、姜弘立が満州人の髪型の辮髪をせず、朝鮮人としての意志を貫いたとして処刑は認めませんでした。

1627年7月27日。もともと年老いていた姜弘立は病気で死亡しました。享年68。

仁祖は姜弘立の官職を復帰させました。

 

テレビドラマ

華政(ファジョン) 2015 演:チョン・ヘギュン

 

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