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許筠(ホ・ギュン)/蛟山(キョサン)洪吉童伝の作者は謀反の罪で処刑された

5 李氏朝鮮の重臣

許筠(ホ・ギュン)は李氏朝鮮時代の重臣。

雅号(ペンネーム)は 蛟山(キョサン)。

宣祖や光海君に仕えました。

小説「洪吉童傳(ホンギルドン伝)」の作者といわれます。

本人は頭がよく差別されている庶子の境遇に共感して差別廃止の活動も行っていましたが。その一方で人とトラブルを起こすこともよくあり解任と任命を繰り返しています。

仁穆大妃廃母派の先頭にたって活動する過激なところもありました。

しかし過激さが災いして最終的には許筠が謀反人として処刑されてしまいます。

史実の許筠(ホ・ギュン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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許筠(ホ・ギュン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1569年
没年月日:1618年

名前:許筠(ホ・ギュン)
本貫:陽川許氏
雅号:蛟山(キョサン)
父:許曄
母:
兄:許筬(ホ・ソン)
  許篈(ホ・ボン)
姉:許楚姬、号:蘭雪軒(ナンソロン)

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖~15代光海君の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

 

1569年。江陵(現在の江原道江陵市)で生まれました。

父親は 許瞱(ホ・ヨプ)。
許瞱は著名な文人で徐敬徳の弟子でした。同知中樞府事を務めた役人です。

母は金光轍(キム・グァンチョル)の娘

異母兄の許筬は日本通信使になって日本に行ったことがあります。

姉の許楚姫は蘭雪軒(ナンソロン)の雅号をもち儒教社会で女性差別の強い朝鮮時代には珍しい女性詩人です。

許筠(ホ・ギュン)は幼いころから記憶力がよく、9歳で漢詩を作って人々を驚かせました。

父の許曄は許筠が12歲のときに死亡しました。親子ほど歳の離れた兄・許筬(ホ・ソン)の養育をうけ質素な生活をおくりながらも学問に励みました。

母に可愛がれて育ちました。

知人の紹介で当時の有名な儒学者の柳成龍(リュ·ソンリョン)から儒学と漢詩を学びました。後に李達(イ・ダル)からも教えを受けました。李達(イ・ダル)は漢詩の世界では有名でしたが、庶子出身で出世はできませんでした。民の苦しみを表現した詩も作っています。当時は庶子というだけで科挙の文科が受けられないなど差別が強かった時代です。

許筠の母は正妻でしたが父の再婚相手だったので兄達とは母が違います。許筠と李達の境遇は違うものの、許筠は李達の境遇に共感を感じていました。後に「洪吉童伝」の執筆に影響を与えたと言われます。

実兄で親しかった許篈(ホ・ボン)が弾劾をうけて流刑になり流刑先で死亡しました。

1585年(宣祖18年)。安東金氏の金大涉(キム·デソプ)の次女と結婚しました。

1592年(宣祖25年)。壬辰戦争(文禄の役)が勃発。

後に義兵になって戦ったことが表彰されていますが。どの戦闘に参加したのかはわかりません。

戦争を避けて暮らしていた妻の金氏が息子を出産後に死亡。その後、幼い息子も病死しました。

家族をなくした許筠(ホ・ギュン)は執筆活動に没頭します。このとき母の実家の近くにある裏山から名前をとって 蛟山(キョサン)と名乗りました。

1594年(宣祖27年)。25歳のとき科挙に合格。役人になりました。

許筠(ホ・ギュン)は遠慮せずに言いたいことを言い、軽はずみな行動もあったので様々なトラブルを起こしています。そのため何度が弾劾を起こされ解任と任命を繰り返しました。

使節に同行して何度か明に行っています。

1598年。黄海道道使になりました。許筠は愛人にしていた妓生がいましたが。黄海道に赴任するときに一緒に連れていきました。そのため弾劾を起こされ解任されました。その後、春秋館(王朝の歴史を編纂する部署)、刑曹正郎などを務めました。

1599年5月。再び黄海道道使になりましたになりました。

1602年。司藝、司僕寺正、典籍、遂安郡守などの官職を務めました

1606年。許筠は朝鮮の文化を明に知らしめたことが評価され、三陟府使に昇進しましたが。仏堂(仏像を安置しているお堂=寺)に出入りしたことが見られて仏教を信じているという理由で弾劾を起こされました。

朝鮮では僧侶は賤民にされていて儒教を信じている両班は仏教を邪悪な教えだと批判していました。許筠はもともと普段の言動のせいで両班達から嫌われることもありました。政敵たちは仏教を批判の口実にしたのです。宣祖は許筠をかばいましたが許筠は辞職。その後、復帰しました。

1608年。明に行きました。このとき姉の蘭雪軒の漢詩を紹介。明の人々から称賛を受けました。

光海君の時代

1609年。光海君が即位。

1610年。副使になって明に行きました。このとき明でカトリックの洗礼を受けました。

許筠は書物が大好きで、明に行ったときに自費で多くの書物(4000冊ともいわれます)を購入しました。その中にはキリスト教の本もあったといいます。

帰国後、擔任試官になりました。親族の科挙の試験で不正して甥を合格させたという理由で弾劾を受けて解任されました。

 

癸丑獄事

当時の朝鮮では庶子(妾の子)は差別され。庶子は科挙の文科が受けられませんでした。つまり庶子は文官にはなれませんでした。父親を「父」と呼ぶことは禁止。「旦那様」と呼ばなくてはいけません。

庶子の地位向上を目指す人々が庶孽党(しょげつとう、ソイルダン)という組織を作り。庶子の差別廃止を訴えていました。彼らは水滸伝や三国志演義に憧れ自分たちを物語の人物達になぞらえて活動していました。

許筠は庶子ではありませんが彼らの活動に共感して彼らと付き合っていました。ところが1611年。庶孽党の者たちは強盗を行って銀を強奪していました。

許筠は彼らの行いを知ると彼らとは距離をおくようになります。

許筠は知人のつてで大北派に入り、光海君の信頼を得ました。

ところが1613年。強盗を行った庶孽党の者が逮捕されると。彼らが永昌大君を王位につけようとしたとして仁穆大妃の父・金悌男を逮捕、処刑。永昌大君を支持していた西人派、南人派が朝廷から排除。永昌大君が処刑されました。

この事件を癸丑獄事といいます。

許筠は庶孽党と付き合っていたので批判を受けましたが、大北派に入っていたこともあり処分は免れました。

仁穆大妃 廃母派の先頭に立つ

その後。仁穆大妃を廃する議論が出ると許筠は廃母派の先頭に立って活動しました。

大北派の実力者・李爾瞻(イ・イチョム)の誘いに乗ったとも言われますが、許筠の主張は大北派の中でも特に強行でした。

ならず者を集めて宮殿の裏山で怪しい行動をとっていたことが確認されています。仁穆大妃を暗殺しようとしていたと思われますが、未遂に終わりました。

許筠の主張はあまりに強硬なのでそれまで許筠を好意的にみていた人も許筠を批判するようになりました。

とくに廃母に反対している領議政の奇自献(キ・ジャケン)と激しく対立しました。最終的に奇自献は廃母派によって流罪に追い込まれますが。奇自献の息子・奇俊格(キ・ジュンゲ)は許筠のせいだと考え「許筠が謀反を企んでいる」と訴えを起こします。許筠も逆に訴えを起こして反論しました。

 

許筠の最期

1617年(光海君9年)。議政府 左参賛になりました。その後、右参賛になりました。

その間も奇俊格は許筠への訴えを起こし続けました。

このころ。李爾瞻の孫は世子嬪になっていましたが。息子がいませんでした。そこで許筠の娘が世子の側室になりました。

李爾瞻(イ・イチョム)にとってや、光海君の信頼を得ている許筠が後継者争いでもライバルになるのは危険でした。2人の関係は悪くなります。

1618年(光海君10年)。奇俊格が「許筠が謀反を起こそうとしている」と訴えました。許筠も反論しましたが、今回は今までと違いました。

もともと許筠は庶孽党と付き合ったり、廃母運動では先頭に立って過激な発言を行い、ならず者を雇って不穏な行動をとったりしました。当時は国王や大北派がかばったので処分されませんでしたが。以前から危ない行動をとっていたので許筠が冤罪だと言っても説得力がありません。

このときの許筠は李爾瞻とライバル関係になっていたので、許筠を庇う者はいません。大北派に支えられている光海君も庇えませんでした。

許筠は拷問にかけられ死刑が確定。凌遅刑で処刑されました。享年48歳。

凌遅刑とは中国や朝鮮で行われる処刑方法で。生きたまま肉を少しずつ切り取っていくという恐ろしく残酷な処刑方法。謀反など極めて思い罪で行われま。

 

洪吉童伝

許筠はいくつか作品を残しています。その代表作が「洪吉童伝」です。

主な内容は以下の通り。

世宗の時代。庶民は圧政に苦しんでいました。洪吉童(ホン・ギルドン)は母が奴婢だったので虐待を受けていました。父の妾からも命を狙われ家出します。道術を使う老人に弟子入りして武術と呪術を学び。の使い手で洪吉童伝が盗賊集団のボスになり、貧しい民を苦しめる役人や貴族から金を奪い庶民のヒーローになります。洪吉童を捕まえようとする役人と戦いますが洪吉童は捕まりません。洪吉童の実力を認めた朝廷は大臣に採用しようとしますが、洪吉童は断って仲間とともに朝鮮を離れどこかの島にある栗島国を征服。身分差別のない国を作るというお話です。

燕山君時代に実在した詐欺師の洪吉同を名前のモチーフにしたようですが。小説の洪吉童と実在の洪吉同はかなり違います。

洪吉同のくわしくはこちらを御覧ください。

ホン・ギルドン(洪吉同)義賊・洪吉童のもとになったのは実在の詐欺師だった?

訓民正音(後のハングル)で書かれた最初の小説といわれます。許筠は水滸伝の愛読者でした。洪吉童伝も水滸伝の影響を受けていると言われます。

儒教国の朝鮮では小説は低俗でレベルの低いものとされていた時代。文化人が読むものではないとされていました。そのような時代に社会問題や政治腐敗を描いた洪吉童伝は朝鮮の文学では画期的な作品でした。

許筠の処刑後。「洪吉童伝」は禁書になってしまいますが。人々の間で密かに読まれ。高宗時代の1905年に木版画で印刷出版されました。

 

テレビドラマ

ホ・ギュン 朝鮮王朝を揺るがした男 2000年、KBS 演:チェ・ジェソン
星から来たあなた 2013年-2014年、SBS 演:リュ・スンリョン
王の顔 2014年、KBS、演:イム・ジギュ
華政 2015年MBC 演:アン・ネサン

 

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