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尚食:荘妃のモデル 韓麗妃・朝鮮出身の妃は殉葬された

明 2.2 明の皇后・側室・公主

中国ドラマ「尚食」に登場する韓荘妃にはモデルがいます。

明朝の第3代皇帝 永楽帝の側室・韓麗妃です。
康恵荘淑とも言います。

韓麗妃は朝鮮出身の妃。
永楽帝の死後、殉葬されました。

 

史実の韓荘妃はどんな人物だったのか紹介します。

 

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韓荘妃の史実

いつの時代の人?

生年月日:1390年代
没年月日:1424年8月12日

姓 :韓(かん)氏
名称:不明

本貫:清州韓氏

国:朝鮮→明
地位:麗妃
称号:康恵荘淑

父:韓永矴
母:不明
夫:永楽帝

子供:なし

日本では室町時代になります。

 

おいたち

 

生年は不明。1390年代と思われます。

李氏朝鮮の清州出身。

明の永楽帝の時代。朝鮮から姉妹とともに貢女として送られてきました。

父は朝鮮の重臣・韓永矴。
韓永矴の姪(弟の娘)は懿敬世子の妃・昭恵王后(仁粹大妃)
韓荘妃は仁粋大妃(インステビ)のいとこです。

韓荘妃の妹・韓桂蘭(恭慎夫人)は宣徳帝 朱瞻基に仕える女官になりました。

貢女になる

永楽15年(1417年)8月。永楽帝は黄儼、海寿などの宦官を派遣して朝鮮から貢女を選抜させた。朝鮮太宗 李芳遠 は黄氏、韓氏など10人あまりを候補として選び。最終的に明の使者に選ばせました。黄氏は17歳、韓氏の年齢は記録がありません。当時の貢女は17歳から13歳が一般的でした。

韓氏と黄氏は貢女に選ばれ兄や6人の侍女、2人の宦官とともに朝鮮を出発しました。このとき「道端の見物人は皆、涙を流した」とあります。

 

明に到着後

明に到着後。韓氏は永楽帝の側室に選ばれ「麗妃」の称号が与えられました。

ところが黄氏が処女ではなく、以前に流産していた知り永楽帝は非情に怒りました。

黄氏は姉夫の金徳章や近所の人である白奴などとの不倫を認めた。朱棣は朝鮮に対し憤り、ハン麗妃は朝鮮王に情を訴えた。

永楽帝は韓麗妃に黄氏を罰するよう命じ、韓麗妃は黄氏の頬を打ちました。でもその後も黄氏は明の宮廷に留まりました。

魚呂の乱で幽閉

永楽19年(1421年)。魚呂の乱が発生。多くの妃嬪や宮女が殺害された事件です。

永楽帝が寵愛していた王貴妃の死亡後。賈呂と宮人の魚氏が宦官と密通していることが発覚、自害しました。ただし「魚」は朝鮮側の間違いで同じ発音の「喻」が正しく。同じころに亡くなっている喻賢妃のことではないかとも言われます。

怒った永楽帝は侍女たちを問い詰め多くの宮女が処刑され、任順妃、鄭氏も命を落としました。このとき韓麗妃も関係を疑われ、冷宮に幽閉されて食事を断たれた日々を過ごした。

門を守る宦官は彼女をかわいそうに思い、こっそりと食べ物を届け、彼女が餓死するのを防ぎました。韓麗妃の侍女たちは皆殺され、乳母の金黒も投獄されました。

ただしこの事件は明の記録にはありません。朝鮮とティムール朝の記録にだけあり、どちらも内容が違っています。誇張されているといいます。

この事件は「尚食」6~7話の喻美人の死亡と荘妃の幽閉の元ネタ。
史実では宦官が食事を届けましたが、ドラマでは姚子衿になっています。

 

永楽帝の死後、殉葬

永楽22年(1424年)7月18日。永楽帝が崩御。
明朝初期の制度では、皇帝の死後に妃嬪が殉葬されることになっていました。永楽帝の死後も30人以上が殉葬され、韓麗妃もその中に含まれた。

殉葬の直前。韓麗妃は地にひざまずいて新たな皇帝である洪熙帝に自分を朝鮮に帰して老母の面倒を見させてくれるよう嘆願したが、許されませんでした。

最終的には明の規則通り絞首刑にされて殉葬されました。

永楽22年10月17日。朝鮮世宗は便殿で明に向かう任添年(順妃の父)、韓確(韓麗妃の弟)、崔得霏(崔美人の父)などを慰労する宴を開きました。

このとき明の使臣は「以前に選抜された韓氏などの女性は大行皇帝(永楽帝)に殉じた」と述べました。

「朝鮮王朝実録」には韓麗妃の諡号が「康恵荘淑」と記録されています。

 

韓麗妃の殉葬もドラマ「尚食」13~14話の元ネタになっていて。ドラマでは姚子衿が逃したことになっています。

 

テレビドラマ

 尚食 2022年、中国 演:鄧莎

 

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